マックの裏側 第1回 マクドナルド創業メンバーが語る秘話

マクドナルド時代の体験談

 コロナ過で自粛続きで外食ままならず、レストランチェックもつらくなって
きました。でも今年は日本に外食産業が誕生し、51年目で、日本マクドナルド
も創業50年です。

と思っていたら、マクドナルドのビッグニュースが2つ飛び込んできました。

 一つは良いニュースで、コロナ過で外食産業が危機的な状況に置かれている
中、日本マクドナルドが、前年比の売り上げがプラスで、利益が過去最高だと
いうニュースです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4c4cca133e87b58774d244241a6124e97c04
7ce3
https://www.asahi.com/articles/ASP2964KKP29ULFA01B.html

 もう一つは、悪いニュースで、元社長の原田泳幸氏のDVによる逮捕ですね。
https://www.data-max.co.jp/article/40096

 ここでちょっとマクドナルドのあまり知られていないことをご紹介しましょう。

 日本マクドナルドは、米国マクドナルド社と、故・藤田田氏の合弁会社で、
故・藤田田氏の経営手腕のすごさを語られていますが、実はそれを支えたお母
さん役がいるのです。 大きく成長した会社には強烈な創業者がおりますが、
その大きな輝きに隠れた、お母さん役・サポート役がいるのです。創業者とお
母さん役・サポート役は実生活の夫婦と同じく必ずしも仲が良くないのです
が、会社という手間のかかる成長期の子供にはお母さんのように細かく面倒見
るサポート役が必要不可欠です。

 ちょっと日本の会社の例を見てみましょう。

 日本の電機産業の巨人パナソニック(松下電器)
 松下幸之助さんが創業しました。しかし、松下幸之助さんは体が弱く、その
仕事欲を満たすには優秀なサポート役が不可欠でした。創業当初は夫人のむめ
のさんと、義弟の井植歳男さん(三洋電機創業者)の2人でした。その後GHQ
や労働組合などの難しい交渉や、難しい不振事業の立て直しを行った高橋荒太
郎さんが支えました。そのため松下幸之助は仕事に邁進できたのです。
https://www.mag2.com/p/news/354214
https://jasipa.jp/okinaka/archives/8064

ソニー
 井深大氏と盛田昭夫氏の共同創業者です。井深大氏は優秀な技術者で、販売
や財務は盛田昭夫氏が支えました。盛田昭夫氏の実家は愛知県の代々続いた造
り酒屋で、敷島製パン創業家とは親戚です。その資金力で資金の必要な創設期
を支えたのです。また、米国などの海外に販路を開きソニーを大成功させたの
です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B7%B1%E5%A4%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E7%94%B0%E6%98%AD%E5%A4%AB
https://newswitch.jp/p/5362

ホンダ
 ホンダの創業者の本田宗一郎氏は強烈な方でしたが、それを支えたのが藤沢
武夫氏です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E6%8A%80%E7%A0%94%E5%
B7%A5%E6%A5%AD
https://honda.lrnc.cc/_ct/17167074
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E6%AD%A6%E5%A4%AB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%
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トヨタ
 今でこそトヨタは2兆円近い利益をたたき出す超優良会社ですが、戦後は経
営危機に見舞われました。トヨタは経営危機に見舞われた1950年、経営立て直
しのため、製造部門(トヨタ自動車工業=トヨタ自工)と販売部門は「トヨタ
自動車販売」(トヨタ自販)となり、神谷正太郎氏は初代の社長となったので
す。神谷正太郎氏は米国のゼネラルモーターズの日本支社で米国式自動車販売
の手法を学び、定価販売、月賦販売を本格的に取り入れ、さらに販売店につい
ても、これまでの1県1社のフランチャイズからマルチチャンネルへの移行をし
たのです。そして車を月賦販売することにし、資金を調達し、販売会社に貸し
て成長したのです。後に自動車工業と自動車販売は合併し、トヨタになったの
です。トヨタと日産の大きな差は技術力でなく、地区の販売会社の質です。現
在では自動車販売を率いた、神谷正太郎氏のことはあまり触れられず、トヨタ
の成功は製造の看板方式と思われているのが残念です。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_th
e_automotive_business/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E5%A4%AA%E9%
83%8E

 日米マクドナルドにはそれぞれ父親と母親がいた。米国マクドナルド・コー
ポレーションは、創業者のレイ・クロックが父親で、母親がフレッド・ターナ
ーだ。レイ・クロックの成果はサンべルナルドのマクドナルド兄弟の店を発見
したこと。フランチャイズの権利をマクドナルド兄弟から買い取ったこと、多
くのフランチャイジーを成功させ世界で一番ミリオネアーを作ったと豪語した
こと、フランチャイジーの良いアイディアを取り入れる懐の深さ、などだ。

 フレッド・ターナーは、儲からないマクドナルドを創業初期の副社長だった
ソネボーンが、不動産ファイナンスで儲かる仕組みを作りさらに不動産を買っ
た手法を継続徹底して、米国の店舗の50%の土地を自社所有し、儲かる仕組み
を確立した。マニュアルや教育体系を確立させQSC+Vを明確に実現した。直営
店3割、フランチャイズ店7割という黄金比を確立し、直営店をフランチャイズ
に売却したり買い取ったりして、安定した利益を出し続け、株価を維持し大手
食品企業などによる買収の危険から逃れたことだ。

 日本マクドナルドの父親がレイ・クロックと契約した藤田田だ。日本化を徹
底し、都市型出店を確立したこと。マーケッティングが上手で日本一の外食産
業に育てたこと。水商売とさげすまれていた飲食店経営を外食産業といわれる
までに産業化し、従業員の社会的地位を高めたことだ。レイ・クロックとの大
きな違いはミリオネアーを作らなかったことだ。

 フランチャイズ一号店は沖縄嘉手納だが、大成功した開店日の2日目には部
下に近隣に直営店を出すように指示した。その結果日本のフランチャイズ化は
大幅に遅れてしまった。もう一つの失敗は、都市型出店にこだわるあまり、人
口の最も多い首都圏における郊外出店に出遅れ、すかいらーくの独走を許し
た。3つ目は土地の高い駅前や繁華街出店にこだわった結果、土地の所有率は
ほとんどゼロという収益の問題だ。

 日本マクドナルドは故・藤田田氏が一人で作り上げたように思われている
が、実は日本の店舗運営に最も大きな影響を与えたのが、母親役だった故・ジ
ョン・朝原氏(2016年・平成28年6月没)であり、その業績を紹介しよう。地
味な存在で一度も外部に紹介されていないからだ。

 故ジョン・朝原氏は、米国に移民した日本人の両親のもとに、カリフォルニ
アルニア・サンフランシスコ郊外の小さな町で生まれ育った日系米国人である
(故・藤田田氏と同じ年で寅年)。日本人のご両親は岡山に近い広島山間地の
出身で、米国では食料小売店などを経営していたが、日米開戦に伴い、日系人
向け強制収容所に収容された。故ジョン・朝原氏も強制収容所で生活経験があ
り、人生観に大きな影響を受けている。
 終戦後、ご両親は食料小売店を再開し、故ジョン・朝原氏はその仕事を手伝
ったり、会計士の勉強をしたりしていた。その後、サンフランシスコエリアの
マクドナルドで働き、店長などの仕事をした。その際に店舗を訪問した、2代
目CEOで、創業者故レイ・ロック氏の愛弟子の故・フレッド・ターナー氏の目
に留まり、開業を控えた日本マクドナルドで店舗を運営する運営部の顧問とし
て派遣された。

 筆者は入社直後にジョン朝原氏に出会ったが、最初はそんなに偉い人だと思
わなかった。冬には刑事コロンボのようなよれよれのコートを着て(刑事コロ
ンボにそっくりな中年男性)、いつも爪楊枝を咥えている恰好は、いつもダブ
ルのダークスーツとブランドネクタイ、ダイヤモンドをあしらったMマークの
タイピンを身につけて一部の隙もない格好の故・藤田田氏とは正反対であっ
た。

 ジョン・朝原氏は日本マクドナルドの社員でなく、米国マクドナルド・コー
ポレーションの社員であり、故・フレッド・ターナー氏に直接報告する役割を
受け持った。
日本マクドナルドが開店し軌道に乗れば帰国するはずであったが、故・フレッ
ド・ターナー氏が日本マクドナルド店舗を訪問し、あまりに、統率が取れ、上
司の言うことを聞く日本人社員の姿を見て、驚嘆するとともに、怖さや懸念を
感じた。日本的であっても米国スタイルのマネージメントの必要性を感じたの
だ。そこでジョン・朝原氏を長期間日本に滞在させ、米国的マネージメントス
タイルとの融合を命じた。

 故・藤田田氏は、本社組織の店舗運営部以外を管轄し、ジョン朝原氏は店舗
運営部のみ担当するという役割分担である。この役割分担は1990年まで続き、
ジョン・朝原氏の店舗運営部の人材育成は成功し日本マクドナルドは大成功し
た。

 このバランスを崩したのが、藤田田氏が日本マクドナルドに開発本部長とし
て藤田商店から出向させた、次男の藤田完氏であった。藤田田氏の目的は2つ
あったようだ。日本マクドナルドは米国マクドナルド社と藤田田氏の合弁会社
であった。正確には当初米国が50%、藤田田氏と第一屋製パンの25%づつの出資
であった。開業数年後に藤田田氏が第一製パン
の持ち分を買い取り、50%の出資となった。藤田田氏は個人で数パーセント
保有し、残りのほとんどを藤田商店が保有した。日本マクドナルドのロイヤリ
ティは2%であり、1%づつを、米国マクドナルド社と藤田商店に支払っていた。
 1980年代に入り、マクドナルドの売り上げが急成長するようになり、その藤
田商店へのロイヤリティは、藤田田氏の給与などの税率の高い所得ではないか
と国税庁が指摘しだした。日本マクドナルドが藤田商店にロイヤリティを支払
うのは、ノウハウの提供であるが、藤田田氏には日本マクドナルドはすでに給
与を払っていたので、藤田田氏が代表取締役を務める藤田商店にさらにロイヤ
ルティを払うのはおかしく、より税率の高い給与所得ではないかという指摘で
あった。
 そこで藤田田氏以外の藤田商店経営陣が、日本マクドナルドに経営ノウハウ
を指導しているという実績が必要と感じた。その対策として藤田田氏は日本マ
クドナルドに開発本部長として藤田商店から次男の藤田完氏出向させた。開発
本部長の主な業務は、新商品開発とマーケッティングであった。藤田完氏は学
生時代兄の藤田元氏と、創業間もないマクドナルドで働いていた経験もあるし
、藤田商店においてマクドナルドの食材の手配を担当していた。そのため新商
品の開発には向いていると思われていた。また、音楽が大好きな感性豊かな人
でマーケッティングにも向いているとみられていたようだ。

 もう一つの理由が、藤田田氏は日本マクドナルドの後継者に藤田完氏を考え
ていたことであろう(藤田田氏は公にはそう発言はしていないが、外部からは
そういう風に見えていた)。藤田田氏には2名のご子息がおり、長男の藤田元
氏は藤田商店の後継者であった。(藤田商店は海外有名ファッションブランド
の輸入販売業、不動産業(主にマクドナルドへの貸し出し)、東京タワーの蝋人
形館経営、マックスイミングスクール経営、合弁のブロックバスターズ経営、
合弁のタイラック経営などの収益性が高く確実なビジネスと、日本マクドナル
ドが輸入する食材や機器類の輸入購入の代行、藤田家個人財産の管理など莫大
な収入がある超優良個人企業であった)。次男の藤田完氏は藤田商店で兄の元
氏をサポートしていたにすぎなかった。完氏は風貌、思考能力が藤田田氏に瓜
二つであり、末っ子ということもあり大変かわいがっていた。日本マクドナル
ドの食材の輸入業を担当し、英語も藤田田氏より流暢であった。そこで日本マ
クドナルドの後継者として考えていたようだ。

 日本マクドナルドを2人三脚で育て上げた、藤田田氏とジョン・朝原氏であ
るが、実は当初より反目しあう仲であった。藤田田氏はアメリカナイズした方
だと思われているが、実は大変日本的な方であった。筆者が入社した当時、日
本マクドナルドはまだ小さな会社であり、新橋にあった藤田田氏の個人企業で
ある藤田商店に事務所を間借りしていた。入社時に社長の藤田田氏にあいさつ
に行くため、藤田商店の社長室を訪問して驚いたことがあった。藤田田氏は輸
入ブランドを扱い、マクドナルドと合弁会社を作るほどなので、欧米の国旗な
どを飾ったモダンな部屋を予想していた。しかし何と日章旗と特攻隊のゼロ戦
の写真が掲げられた、まるで右翼のような部屋であった。藤田田氏の学生時代
の多くの友人が学徒出陣し、亡くなっていることを悼んでの装飾であったよう
だ。そういう意味では欧米の商品を輸入はしているが日本人の魂は維持したい
ということのようだった。また、藤田田氏は、戦後進駐軍で通訳として働いた
際に、日系米国人などの横柄な態度を見て日系人にも反発を感じていたよう
だ。

 ジョン・朝原氏は両親が日本人の間に生まれた外見と、広島弁のつたない日
本語を話していたので純日本人に見えた。しかし、中身は日本を理解している
(日本人の良いところも悪いところも)米国人であった。また、藤田田氏にと
って、ジョン朝原氏は米国マクドナルドの実力会長フレッド・ターナー氏や創
業者のレイ・クロック氏に報告する、スパイと感じていたようであった。表面
上、二人はうまくやっているようであったが、お互いに相手に反発を抱いてい
た。ジョン朝原氏から見ると藤田田氏は個人的な資産形成に懸命で、マクドナ
ルドの利益に反するときもあるとみていたようだった。

 しかし、創業して間もない日本マクドナルドでは店舗展開が急務であり、藤
田田氏も多忙で店舗人材育成にかかわる時間がなかった。そこで店舗の人材育
成は朝原氏に一任していた。

 朝原氏のマネージメントスタイルは「UP or OUT 出世するか解雇される
か」「UP TO YOU あなたの努力次第だ」という厳しいドライな米国スタイル
であった。筆者は入社した当時から、退職するまでジョン朝原氏の薫陶を受け
ていたし、筆者が日本マクドナルドを退職した後も、亡くなる直前まで交流を
していた経験があるので彼の人となりを、ご紹介しよう。

 ジョン朝原氏は組織上私の上司ではなかったが、朝原氏の意見や考え方は店
舗運営関係者の間では絶対であり、実質的に筆者の上司であった。朝原氏のマ
ネージメントスタイルの「UP or OUT 出世する解雇されるか」といって
も、米国のようにドライに解雇するのではない。店舗移動させるか、店舗運営
部以外に配置展開するのであった。当時の日本マクドナルドは急成長してお
り、店舗運営部以外にも、本社管理部門の人材が不足していた。外部の店舗を
知らない人間より、店舗を熟知した人間が本社スタッフになるほうが、店舗と
のコミュニケーションがスムーズだ。また、当時の日本人には米国的なドライ
なマネージメントは抵抗があるだろうとみていた。そこでジョン朝原氏は店舗
向きか本社向きかを判断していた。このアメリカのマネージメントスタイルを
日本人に溶け込ませるという点で、見事であった。

 日本人社員に指示をすることはなかった。その代わりに徹底して考えさせ自
分の考え方や判断により仕事を勧めさせるようにした。本人に考えさせるた
め、何時も質問をするのであった。君は今何をしている?何故そうする?理由
は?原因は何?どうすれば良いと思っているの?なぜわかっているのにやらな
いの?何故、上司の指示を待たないで自分で考えて実行しないの?と答えに詰
まるほど質問攻めし、日本人社員が自分で問題点を見つけ、自ら積極的に仕事
をさせるようにした。考えるだけ、わかっているだけでは駄目だった。間違っ
ても行動し、常に改善するのでなければならなかった。仕事をするには徹底
し、間違ったりミスをしても次に同じ失敗をしなければ良いという考え方だっ
た。

1)自分で進路を考えて、自分で道を切り開く。上司に頼らない
 朝原氏の人材育成は独特のものであった。人によって異なる(最適な)進路を
自分で選定させ、その人にあった育成を行うというものであった。日本では会
社にとって役に立ち、上司の言うことに黙って従う従順な従業員を求めるが、
朝原氏の人材育成は全く異なっていた。朝原氏がこういう能力をつけさせよう
とするのでなく、個々人に自分の将来の進路を考えさせ、どのような仕事の能
力が必要か認識させる。もちろん、マクドナルドという企業にとって有益なこ
とは最低条件だ。日本の企業が従業員に求める、滅私奉公という会社絶対では
なく、個人と会社の双方にとって有益になるようにという考え方だ。

 もちろん指示はしないが、必要な仕事は何かと考えるように仕向けることは
あったが、決して無理強いはしなかった。
 これはフレッド・ターナーが最初に訪日して見て驚嘆した、日本人事従業員
の、上司の命令に整然と従い、仕事を決められた手順やマニュアル通りに行う
という姿に、感心しただけでなく危機感を感じたことからきているのだろう。
これは筆者の想像であるが、従順で自分の意見を言わない日本人が、国力の差
を知りながら第2次世界大戦に突入し、上司の命令のもとに何の疑問を抱かず
特攻隊として自爆していったことから、日本マクドナルドも重大な過ちを何の
疑念も抱かずに犯すのではないかと危惧したのではないだろうか?そこで朝原
氏にマネージメントスタイルのアメリカナイズを指示したのだろう。
 
2)環境が人を育てる。
 自分で進路を考えて自分で道を切り開くのであるが、その方向性を各人に気
が付かせる必要がある。それは朝原氏が指示するのでなく、各人を問題に気が
付かせる環境におくのである。
 藤田田とジョン朝原は、多人数の子供を持った不仲な夫婦のようだった。藤
田田は父親、ジョン朝原は母親に当たるだろう。父親は大勢の家族を食べさせ
るため、遅くまで仕事に専念し、子供の顔を見る暇もない。働き盛りでエネル
ギッシュな姿は、女性にも人気で妻以外にも付き合う女性がおり、家にも帰ら
ない。(藤田田はビジネスマンとして大変優秀で、海外の企業からも引っ張り
だこで、トイザらス、ブロックバスターズ、タイラック、などの欧米企業と合
弁会社を作り大忙しであった。不在がちの父親・藤田田に代わり大勢の子供(
店舗運営部)に食事をさせ、勉強させて育てるのが朝原氏の母親としての役割
であった。子供は育ててくれる母親になつくのは当たり前であり、店舗運営部
全員とジョン朝原氏が本社に送り込んだ社員たちは朝原氏の子供と同じであっ
た。怖いお母さんであったが。

<1>米国研修旅行
 環境とは、日本より20年以上早く店舗展開を行い、5000店舗近い店舗と数千
人の優秀な従業員(フランチャイジーも含めて)がいる米国を見せることであ
った。
  朝原氏は何をしろとは言わないが、優秀店舗の運営方法や、優秀な従業員
(フランチャイジーや本社スタッフを含む)を見せる米国研修旅行を活用し
た。米国研修旅行に同行し、各人に気が付かせるように辛抱強く待つのであっ
た。筆者は朝原氏と長年付き合ったが、実は大変気が短い人であった。その気
短な性格を見せず、辛抱強く待つのは大変な自制心が必要であったのだろう。
 当時1ドルまだ360円の時代であり、出店のために多大な投資を続けざる
を得ない状態の日本マクドナルドには多額の費用がかかる米国研修を行う財政
的な余力はなかった。しかし、米国マクドナルドは当初は単にロイヤリティを
日本から受け取るだけでなく、それ以上の金額の費用を米国研修旅行などの費
用として出してくれたのである。米国が社員研修で負担したのは、シカゴ本社
そばにあるハンバーガー大学の研修費用であった。その他、同行する朝原氏の
旅費、授業中の同時通訳の経費、教材の翻訳費用、などを負担した。日本で使
用するマニュアル類の翻訳者の人件費も負担していた。

 研修旅行と言ってもマクドナルドのことであるから単なる物見遊山ではな
い。まず、サンフランシスコの店舗を訪問し、次にニューヨークの店舗の視
察、そしてシカゴの本社のあるシカゴのハンバーガー大学での10日間のAOC
(アドバンス・オペレーション・コースという店舗運営上級コース)の受講、
そして、帰国はハワイ経由でと約3週間にのぼる研修旅行だった。
 朝原氏は何か気が付かせたいと思うことがある場合には、良い店舗を見学さ
せたり、その分野の専門家とディスカッションさせた。
 後にハンバーガー大学の教育カリキュラムは多彩となり、スーパーバイザー
コース、統括スーパーバイザーコース(直営店管理者)、オペレーション・マ
ネージャーコース(運営部長)、フィールドコンサルタントコース(フランチ
ャイズ向け指導者)、トレーニング・コンサルタントコース(各地や各国のハ
ンバーガー大学のトレーナー)、マーケッティング・ハンバーガー大学、など
ができた。朝原氏は必要に応じてそれらのコースと参加者を選択し同行した。

 例えば、店舗の視認性(目立ち度)は大変重要であり、日本の繁華街の都心
型店舗は他店の派手な看板の中に埋没してしまう。如何に目立つかが重要だ。
郊外型のドライブスルー店舗であれば、数キロ手前の野点の看板で告知する。
店舗近くになると大看板の位置、イン看板(駐車場への誘導看板)が重要だ。
 都市型の出店は、日本の銀座の成功を見て、米国ニューヨークなどの繁華街
でも出店を開始し大成功し、都市型店舗は、東南アジア、ヨーロッパ、オース
トラリアでも大成功した。当初の銀座店などは、客席無しでも成功したが、日
本も客席付きの大型店舗を増やしだした。
 ニューヨークの店舗は客席200席以上の大型店であり、派手な看板を備える
だけでなく、歩行者に遠くから目立つように、強大なMマークのフラッグを店
頭に掲げ、地下鉄の出入り口やバス停のベンチに、ちいさなMマーク入りの案
内看板を掲出していた。それらを、ヴィジビリティ(店舗視認度)といってい
た。それを学ぶために、店舗運営部だけでなく、店舗開発や、店舗を作る設計
管理の担当者を連れて行った。そして、それを見て日本向けの視認度向上を各
人にさせた。各人が自ら気がついて。自分の考え方で実行し効果を出し自分の
成果にする。朝原氏はそれを見てほめ、自分の言った通りだろうと言わなかっ
た。こうして、店舗運営部だけでなく他部にも影響力を出していったのだ。

 筆者は最初の研修旅行に参加して、マクドナルドのマニュアル、ノウハウの
奥行きの深さに驚かされた。当時は70年代の半ばであり、米国経済はややか
げりを見せ始めたものの,まだ絶頂期であった。当時の店舗のオペレーション
のレベルのすばらしさは現在の米国店舗の状況とは雲泥の差があり、店舗内は
ゴミ一つ落ちていないし、倉庫内の整理整頓や調理機器のプリベンティブメイ
ンテナンス(壊れないようにする定期整備)は完璧であった。
 店舗訪問の際にはカメラを持参し、全ての店舗の写真を撮って歩いた。視察
旅行の際に目で見て参考になる箇所、疑問に思った箇所を頭に刻み込みその部
分の角度をいくつか変えて写真を撮る。後で写真を見ると、その時に感じた問
題点、参考点の記憶がよみがえってくる。そこで写真にメモをつけて行くわけ
だ。何も考えず、目で見ないで、写真を撮っていくと実はファインダーを通し
てしか物を見ていないから、何故その写真を撮ったのか?実際の現場はどうだ
ったか、などがわからなくなるのだ。

 また、店舗を見るだけでなく外食の競合の状況や、ショッピングセンターの
各業種、米国での生活のし方等、幅広く見て回った。ここでジョン朝原氏に厳
しく言われたのは、ありのままの状態を見ろと言うことだった。日本人は言葉
の問題もあるが島国に長く住んでおり,日本独自の考え方にどっぷり浸かって
いる。そうすると全く新しい物を見たときにこれは日本で言うと何々だなと
か、日本のあの店と同じだ等と、自分のフィルターにかけてみてしまいがち
で、米国でどのような位置づけなのかという捉え方を出来ないと言う問題があ
るということだった。

 筆者は経済新聞や小売業の専門雑誌を購読しており、海外の小売業やショッ
ピングセンターの状況を把握していた。だからショッピングセンターを訪問し
ても見るのは初めてだが、知らなかった小売業は無かった。そして、雑誌など
で仕入れて知識を元に実際の店舗を見ることが出来て大変勉強になった。当時
の日本の流通業はまだまだ遅れており、米国のショッピングセンターの百貨店
の売り場の飾り付け、ショーウインドーディスプレーのすばらしさに感嘆させ
られた物だ。

 ジョン朝原氏にはさらに目的を持って店舗を見なさいという指導をうけた。
同行の他のSVが目的もなく単に写真を撮っているとその目的を聞いて、何とな
く撮っているともの凄く怒っていた。筆者は商品の品質に問題点を感じ、機
械、原材料、オペレーションと的を絞って写真を撮っていたので怒られること
はなかった。
 この米国研修旅行で撮った写真の枚数は1500枚以上になり、その一枚一
枚を見てみると当時の問題がなんだったかがまるで目の前にあるかのように思
い出される(現在も大切に持っている)。
 当時の日本マクドナルドのオペレーションはいい加減な物だった。銀座の一
号店を開店前に数名の社員を1ヶ月弱グアム島のマクドナルドで研修させ、後
は見よう見まねで開店した。ジョン朝原氏も同様で、マクドナルドに入社して
1年ほどしかたっておらず、やっと店長になったくらいの経験だった。そんな
中でマニュアルを簡単に訳し、日本化していたのだから、米国のオペレーショ
ンとは全然異なるのは当たり前であった。
 まず品質上の最大の問題点はハンバーガーの肉が焼けない,フレンチフライ
がカリッと揚がらないないと言う問題だった。当初は売れすぎだからと思って
いたが、この研修旅行で発見したのは調理する機械が全く異なると言うことだ
った。当時の日本のグリルはガスを熱源として、温度コントロールをサーモス
タットが行うものだった。しかし、そのサーモスタットの反応が実に遅い物だ
った。初期のマクドナルドは生の挽肉をパティ状に整形した物を毎日店舗に配
送して使用していた。生のミートであれば焼成するのにそんなに熱カロリーを
要求しないので、反応の遅いグリドルでも良かったわけだ。しかし、生の挽き
肉は3日で色が変わり臭いも出て廃棄しなくてはいけないので、ロスを防ぐた
めに冷凍のミートパティを使うようになってきた。冷凍のミートパティを解凍
しないでそのまま焼くのが一番品質がよいのだが、そうするとかなりの熱カロ
リーが必要になる。従来のグリルは熱カロリーよりも温度の分布に優れた物だ
ったが、冷凍品には所詮向いていなかった。そこで、冷凍パティ用の熱カロリ
ーが高く、応答性の良いグリドルが開発されたわけだ。
 当時の日本の国産牛肉は高価であったため、海外から冷凍パティを輸入する
ことになった。ところが、肝心の冷凍パティ用のグリルがあるのを知らない
で、熱カロリーの低い生のミート用のグリルを入れたわけだ。それでも米国と
同じグリルを使用すればまだ良いのだが、当時1ドル360円の為替の関係で米国
製は高価だと言うことで、輸入した機械をモデルにコピーをしたわけだ。コピ
ーでもデッドコピーで内部の機械部品まで全て同じであればよいが、そこは素
人の見よう見まねであり、肝心のエンジン部分である燃焼部分は全く異なる低
品質の物を使用していた。

 米国では使用するガスはカロリーの高い天然ガスしかなかった。しかし当時
の日本はコークスガスという石炭を原材料にしたカロリーの低いガスが中心で
あり、カロリーだけでなく、供給する圧力も低かった。昼や夕方になり各家庭
で夕御飯の支度や風呂をわかすためにガスを使うようになると全体のガスの圧
力が落ち、店舗で使うグリルやフライヤーの火力も落ちてしまうのだ。それを
防ぐためにガスプレッシャーレギュレーター(ガス圧安定機器)を取り付けて、
ガスの圧力を安定させるわけだ。実はこの肝心のガスプレッシャーレギュレー
ターを取り付けず、かつ、応答の遅いサーモスタットをつけていたのだから冷
凍肉は焼けるわけはなかったわけだ。

 しかも当時のグドルは単一のハンバーガーを焼くために一つのグリドルの巾
が1.5メートルもあるグリドルだったが、1人の人間が作業するには大きすぎ
るし、2人の人間が入るには狭すぎという中途半端なサイズだった(米国は、
すでに幅3フィート、約90cmの幅の一人で動けるぴったりサイズであっ
た)。また、異なる種類の肉を焼くには向いていなかった。米国の店舗ではク
オーターパウンダー(QP)という通常の肉の2.5倍の重さの肉を焼くために、
店舗には3台のグリドル(3フィート幅の)を入れるようになっていた。つま
り、グリルの形、性能,数量の全てが異なっていた。
 トースターも同じだった。色々サーモスタットを改善したが、温度むらは完
全には解決しなかったし、熱プレート面がゆがんでバンズに密着しないと言う
機構上の問題も抱えていた。当時の日本のバントースターは24枚のバンズを
同時に焼ける物だったが米国では12枚のバンズを焼くために複数のトースタ
ーを使用しており、火力も強いし、熱プレートの水平度の高い物だった。

 もうひとつ当時困っていたのがスチーマー(蒸し器)だった。フィレオ・フィ
ッシュのバンズを蒸すのに使用していたのが旧型のスチーマーであり、水分中
のカルシウム、マグネシウムの硬水分が水路に付着し、しょっちゅう清掃が必
要だったし、機械のがたがきやすく修理が頻繁に必要だった。当時の米国は1
2枚のバンズをそのまま蒸せる性能が良くかつ清掃がたやすく丈夫なメーカー
特注に変わっていた。
 以上の違いを3週間足らずの短い間に発見させたのは米国の優れた研修シス
テムだった。当時の米国ハンバーガー大学はシカゴ郊外の本社から40分程度の
距離にある店舗横に建てた3階立ての立派な建物で、大講堂などには下手な映
画館よりも立派な映像設備を持っていた。それだけでなく、店舗で使用してい
る全ての最新の調理機器を置き,受講生が分解してその修理方法を習えるよう
になっていた。さらに、オペレーションマニュアルだけでなく、エクイップメ
ントマニュアルというのがあり,店舗で使用している調理機器の全ての取扱説
明書と、修理方法、部品番号をきちんと書いてあり、マニュアルを見れば誰で
も簡単に修理が出来るようになっていた。このマニュアルと、AOCの授業,実
習用の機械から,日本と米国の調理機器の違いを学び取ることが出来たのだっ
た。

続く

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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