嚥下障害と介護食「寿司とステーキ」 第4回目(日本厨房工業会 月刊厨房)

寿司とステーキ

正月の第2回目の外出時にPホテルの和食で苦労したが、肉が案外食べやすいことを発見した。そこで第3回目の外食はKホテルの鉄板焼きステーキに挑戦することにした。鉄板焼きステーキを選んだのは、左半身不随でフォークとナイフで肉を切れないからだ。鉄板焼きステーキは肉を好みの大きさに切ってくれるし、固さに影響する焼き加減も見ながら調整できるからだ。鉄板焼き台はカウンターなので車いすでも使えるが、椅子に乗り換えた。車椅子を普通の椅子に乗り換える際のは、そんなに難しくないのだが、置き場所が必要だ。ホテルの飲食店はスペースがありその点使いやすい。
軟らかいひれ肉と伊勢海老を注文した写真①。鮑もあったのだが固いだろうと伊勢海老にした。(酒蒸し焼きにすると鮑は柔らかくなるが)その他は野菜とニンニクチャーハン、みそ汁、デザートだ。肉は小さく切ってもらったら軟らかく問題なく食べられた写真②。苦労したのはとんかつと同じく野菜とみそ汁写真③、ニンニクチャーハンだった。特にチャーハンはご飯粒がばらばらで苦労した。チャーハンは比較的固めに焚き、油で互いにつかないように炒めるので、口中でまとまらず、嚥下の際に誤嚥しやすいので注意が必要だ。食後のデザートはアイスクリームで、大変食べやすかった。
食後は、コーヒーを飲みに、コーヒーショップに行った。このホテルのコーヒーショップは数段上る位置にあり、高層ビル街に行きかう通行人を眺めながら、くつろげるようになっている。サラリーマン時代によく行っていたので懐かしく訪問した。しかし車椅子で数段上がるのは大変だ。でもこのホテルは大改造し、車椅子ごと乗れるリフトを設置していた写真④。さらに嬉しいことに筆者の食べられるケーキを置いていたのだ。第一回目で申し上げたが、筆者は急性期病院では当初、インシュリンを投与せざるを得ない状態で、カロリー制限をしていたので、リハビリ病院でもケーキは厳禁だったのだ。しかしこのリハビリ病院の一階ロビーは、ホテルのように2階までの吹き抜けの空間にはコーヒーショップを設置し、ショーケースには美味しそうなケーキが並んでいる。しかもリハビリは2階で行うが、その際に眼下の美味しそうなケーキがガラス窓越しに目に入ってくるのだ。療養訓練士や看護師、看護補助士に食べたいと懇願するも、返事は無情にもノーだった。そこで外出時には鬼のような監督の介護補助士(若くて美人で優しいのですが、駄目なものはダメとはっきり言います)もいないしと注文したのだ。更にうれしいことには、低糖質のケーキを置いていたので写真⑤、後ろめたい気持ちを持たずに食べられた。退院後に通所リハビリでリハビリ病院を訪問した際に、真っ先にケーキを食べたのは言うまでもない写真⑥。
正月の食べた鮨がおいしくて、本格的な寿司が恋しくなり、4回目の外出時は寿司の専門店を目指した。西新宿のKホテルにある銀座Qに行った。寿司屋はカウンターなので車いすでも使えるが椅子に乗り換えた。正月にリハビリ病院で食べた鮨は軟飯の酢飯であったが、さすが軟飯はない。そこで嚥下障害だから寿司懐石コースを食べやすくしてほしいと注文。対策は、刺身は薄く半分の大きさに切る写真⑦。寿司ネタは、タコ、イカ、鮑などの硬いものは避け、ホタテ貝柱、ウニ、いくら、イワシ、サーモンなどの柔らかい身を半分の大きさにする。カンパチやマグロは裏包丁を入れ噛みやすくしてもらった。シャリも半分の大きさにする写真⑧。ウニ、いくらは軍艦巻きが普通だが、海苔が喉に絡む。そこで小皿にシャリを乗せその上にウニ、いくらを置いてもらった写真⑨。デザートは柔らかいメロンで食べやすかった。
もちろん帰りにはコーヒーショップで低糖質ケーキを楽しんだのは言うまでもない。
さて今回からは、嚥下しやすい食材と調理の関係をご説明しよう。嚥下食の詳細については、一般社団法人 日本摂食嚥下リハビリテーション学会が、日本摂食・嚥下リハビリテーション学会嚥下調整食分類 2013を出しているのでご参考いただきたい。
ただ、医学的な表現が多く、管理栄養士や一般の方にちょっとわかりにくいので、筆者の経験をお話ししよう。第3回目でお話ししたが、嚥下食は、幼児の離乳食によく似ているが、筆者のような高齢者は長年の食生活で好みが出来上がっており、市販品や嚥下をしやすく安全にするための、とろみ剤(増粘剤)に抵抗がある。筆者もそうであった。そこでリハビリ病院入院期間の4か月半と、退院後の3年半で、嚥下しやすい、いろいろな食材や料理の研究をしてみた。其の筆者の経験談をご紹介しよう。
筆者の経験がお役に立てるように、筆者の好みをご説明しておこう。筆者の名前からよく勘違いされるが、筆者は日本生まれの日本人である。筆者の父親が台湾人で、第2次世界大戦前、日本領であった台湾から日本本土に働きに来て、日本人の母と結婚して生まれたのが筆者である。戦後、父親の戸籍が中国となり、筆者の国籍は中国となった。(当時日本が国交を結んでいた中国は台湾であった。その為戦後生まれの筆者の戸籍は中国籍であったが、)1972年の中国と日本の国交正常化に伴い、日本に帰化した。)子供は親の影響が強く筆者の食の好みは日本食である。もちろん父親の食事の影響で、中華料理が好きであるが、台湾料理より広東料理の方が好きである。
広東料理が好きな理由は、サラリーマン時代に仕事で香港に行く機会が多かったことと、転勤で世界で一番大きな中華街のあるサンフランシスコエリア、南京町(関西における中華街の呼び名)のある神戸、日本最大の中華街のある横浜、に長くいたためである。因みに世界の中華街の料理は基本的に移民の多い広東料理だ。サンフランシスコ、神戸の南京町、ニューヨークのチャイナタウン、シドニーの中華街などである。少ない例外が、横浜中華街とシカゴの中華街だ。横浜の中華街は。昔は台湾料理、現在は四川料理の店が多い。シカゴの中華街は台湾料理と四川料理だ。横浜や関東の中華料理に四川料理が多いのには理由がある。昔日本領であったことから、日本に住み着いた台湾人が多いので台湾料理が多いのはわかると思う。四川料理が多いのは、日本でビジネスに成功した台湾人一世(筆者の父の世代)が、おいしい中国料理を食べたいと台北や高雄(台湾南部の大都市)、香港の有名レストランで働いていたあと来日していた、有名調理人(四川出身)の陳 建民氏を、贔屓にしたからである。陳 建民氏は宮廷料理も作れる本格的な料理人でありながら、四川、広東(香港のある)、台湾料理もできた。台湾人一世は、台湾人同士でビジネスの資金を融通する、無尽を頻繁に開催していた。その際に陳 建民氏の料理を楽しんでいた。また、台湾人一世は大型の中華料理店(大飯店)を繁華街で経営しており、陳 建民氏の四川料理は大きな影響力があった。
陳 建民氏はNHKの料理番組の出演が多く、また、中国料理人の育成に熱心であり、関東を中心に四川料理が普及した。関東人には、濃い口醤油や、関東風うどんでわかるように、濃い口の味が好みであり、ピリ辛で味のしっかりした四川料理の味が受けたようである。神戸の中華街である南京町の味は、四川料理の多い横浜中華街の味と大きく異なる。
味の基本はおふくろの味である。筆者の母親は、東京目黒の農家(正確には植木屋)の娘として生まれ、筆者も小学校3年に祖父が亡くなるまで生活した。。今の目黒は賑やかな住宅街であるが、母親の時代には東京近郊の農家の多い田舎で、冬に雪が降ると馬橇(そり)が走っているのを覚えている。昔の農家で家の台所は土間で竈でご飯を炊いていた。正月には家族総動員で餅つきであった。庭には、柿、イチジクなどの果実を植えて食べていた。庭で飼っていた軍鶏を戦わせて、負けた軍鶏をひねって、鍋にしたり、6月ごろには二子多摩川近所の親戚の農家を訪ね、投げ網で採った(当時は合法)大量の鮎をてんぷらにして食べた。今思うと贅沢であったが、当時の幼かった筆者は内臓がほろ苦い鮎を美味しいとは思わなかった。鮎と一緒に庭でとれた、茗荷や紫蘇の葉をてんぷらにするという自給自足の質素な生活であった。祖父は日本酒が好きであったが、つまみはそば粉を自分でこねた蕎麦がきという粗末なものであり、正月の赤飯も竈で炊き、家族総出でお節料理を作っていた。現在のように御節や赤飯を買うようになるとは思わなかった。
祖父が亡くなり、日本橋小伝馬町に引っ越し、数年間、叔母叔父と生活するようになった。小学校高学年になり、父母が商売をしていた池袋に引っ越し、初めて父母と生活するようになった。それまでは父母が仕事で忙しく、純粋の日本人の祖父や叔父叔母に育てられていた。ということで筆者の食の好みは関東の味であった。納豆も食べるし(中国人は決して食べない)、「くさや」も大好きである。因みに江戸っ子というが、江戸っ子の条件は、納豆はもちろん、「くさや」も平気で食べれることである。地域や国によって人々の食の好みは異なるが、それが顕著に出るのが発酵食品で、調味料の味噌・醤油は地域により大きく異なる。醤油は東南アジア各国で調味料として使われるが、材料や発酵方法で味が異なる。日本の醤油は小麦や大豆が原料であるが、東南アジアの魚介類が豊富な国では、魚を原料とする魚醤である。名なのはベトナムのニョクマムで、フォーなどに使われる独特の味だ。日本でも、秋田などでは、魚醤を使うショッツルが有名だ。
欧米の発酵調味料で重要なのは乳製品を原材料にする、バターやチーズだろう。日本人が苦手とするのは、チーズであり、ブルーチーズや羊乳のチーズを苦手に思う方も多いだろう。筆者は欧米や東南アジアで苦手とする味は少ないが(仕事で旅が多く慣れているため)案外苦手なのは初めて訪問する際の日本の地方の味だ。琵琶湖名物の鮒の馴れ寿司などは強烈な匂いだし、長野の蜂の子も外観が苦手だ。中国や韓国の赤犬や、香港の蛙料理、台湾の腐乳などは、旅行で数回食べて慣れたが、初めての味は苦手なものだ。
食の好みの違いを経験したのは小学校高学年になってから初めて一緒に生活した父母からだった。父親が時々仕事で出張すると母親が、いそいそと台所で魚の干物を大量に焼きだす。母の大好物の「くさや」だ。数枚熱いご飯とともに食べ、残りの身を細かくほぐして、醤油をかけ、タッパーウエアーに密閉し冷蔵庫にしまう。数日して父親が変えると大騒ぎだ。鼻をクンクンさせ「何か腐っていると」部屋中を大騒ぎして探し回る。母親はすました顔で知らんぷりしている。父親は20年以上日本にいても「くさや」の異臭はダメだった。 この父母の味の好みの違いは大変印象に残っている。因みに「くさや」は東京(東京都の伊豆諸島各島、新島、八丈島、伊豆大島、三宅島)の特産品である。
主題の嚥下食に戻ろう。この脳卒中という病気は決して新しい病気ではない。おそらく人間の誕生以来抱えていた問題だろう。それが老齢化人口の増大で問題が大きくなっているだけなのでないだろうか?ということは、従来の食生活でうまく対応できるのかもしれない。それが食の外部化や、共稼ぎ世帯の増加などで継承されていないのではないだろうか?特に最近のSNSで人気の流行の料理を見てみると、料理の栄養価や食べやすさでなく、写真映えの良さに偏りすぎて、伝統的な食生活の継承がおろそかな気がする。そして、伝統的な食の歴史が長い国の伝統的な食生活を丁寧に探せば回答があるのではないだろうかと思い至った。伝統的という意味では、文化レベルと食のレベルが高く歴史の長い、中国・韓国とイタリアに注目した。韓国料理は中国料理の影響を強く受け、日本料理の原型ともいえる。   西欧料理ではフランス料理と思いがちだが、歴史が長く影響力があるのはイタリア料理だ。フランス料理はルネサンス期のフィレンツェから当時のフランス王アンリ2世に輿入れしたカトリーヌ・ド・メディシスとその専属料理人(イタリア系)によってもたらされ、その後ロシア、ドイツなどの宮廷に広まったと言われている。フランス料理が有名になったのは、1900年代初期に有名料理人エスコフィエへがバイブルといわれる『料理の手引き』という体系的に整理した料理教本を刊行したためである。つまりヨーロッパの料理の原点はイタリア料理といってよいだろう。フランスというと芸術が得意で広大な農地と豊富な農畜産物に恵まれたな国に思われているが、高度に発展した工業国でもある。原子炉、原子力潜水艦、ジェット戦闘機を自国で生産できる、高度の工業力と強大な軍事力を持っている。軍事力では工廠方式という高度な銃器製造技術を建国間もない米国(当時英国との独立戦争などに直面)に供与し、その技術が米国の豊富な鉱物資源とつながり、フォード自動車のモデルTという流れ作業の大量生産方式につながった。この工業的な知識を食に当てはめ、体系的な料理人育成方法を確立したことが、フランス料理の隆盛につながったのだろう。
中国・韓国とイタリアの特徴を見てみると、中国は広大な土地と南北の広がりだ。韓国とイタリアは国土が狭いが南北に細長い。この南北に伸びているというのが食文化に大きな影響を与える。3つの国とも南部は温暖で雨量の多い亜熱帯気候で、稲作に適し、米食文化だ。また、たんぱく質の摂取でも違いがある。南部は海に面しており、魚介類も豊富で食用にする。北部は寒冷地で乾燥した気候で、麦作が中心で、小麦の粉物(パン、パスタ)が主食となる。たんぱく質も肉食が中心となる。3か国を訪問するとよくわかるが、北部に住む人は背が高く、南部に住む人は背が低い。
さて、西欧の料理と東洋の料理は分断されていると思われがちだが、つながりがあるのだ。中国・韓国料理はチンギス・ハーン時代に、東欧やロシアなどに伝わっている。典型的なのは水餃子で名前は変わっていても同様の料理がある。イタリアのラビオリもそうだろう。
西洋料理と東洋料理は全く異なっていると思われているが、シルクロードは中国と欧州の貿易路として、多くの人と物資、文化(食も)を移動させていた。途中の中近東や、ギリシャは西洋と東洋を融合した料理が残っている。筆者は米国に住んでいた際に、移民の多く住む街を訪問して、それぞれの民族料理を学ばされた。日本では、中華街や韓国人街位だが、米国には、チャイナタウン(中華街)、コリアンタウン(韓国人街)、ジャパンタウン(日本人街)はもちろん、イタリア人街(ニューヨークのリトルイタリー)、スロバキア人街、ロシア人街、ギリシャ人街、トルコ人街、イラン人街と豊富にそろい、色々な本格的なエスニック料理を味わえる。筆者が、ギリシャ料理や中近東のイラン料理を食べて感じたのは西欧と東南アジアのつながりだった。
イランの大衆料理にケバブ(焼き鳥)がある。鳥の串焼きで、白いご飯(長粒米だが)の上にゆかり(赤紫蘇を塩漬け乾燥後、粉末にしたふりかけ。赤紫蘇とは茎も葉も赤紫色をしたシソ。主として梅干しの色付けに用いる。)を振りかけて食べる。現在では大手食品会社がゆかりを登録商標として販売しているため有名だが、40年前には京都の特産にすぎなかった。赤紫蘇はヒマラヤやビルマ、中国などが原産で、日本には中国から薬草として伝わったとされている。その赤紫蘇がシルクロード経由でイランに伝わったのだろう。
もう一つはギリシャの小豆の食べ方だ。東洋では小豆を甘いデザートとして食べるが、欧米では塩味で煮付けて食べる。とギリシャも南北に長く、肉も魚も食べ、隣のイタリア料理に近い。ところがギリシャ料理の小豆は甘くしたデザートとして食べるのだ。筆者は、デザートの分水嶺と呼んでいる。
話が横にそれてしまったが、次回から中国・韓国とイタリア、日本で昔から食べていた伝統的な食材や料理の中から、嚥下食に最適と筆者が思う食材をご紹介していこう。

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参考資料
学会HP https://www.jsdr.or.jp/

日本摂食・嚥下リハビリテーション学会嚥下調整食分類 2013
http://www.jsdr.or.jp/wp-content/uploads/file/doc/classification2013-manual.pdf

嚥下食.com
http://www.engesyoku.com/

とろみ剤の種類
http://www.b-style-msc.com/
hpgen/HPB/entries/78.html?utm_source=yahoo&utm_medium=cpc

http://www.ichitorozai.com/

とろみ剤の粘度調整知識
http://www.keijinkai.com/c-shiroishi/rehabilitation_662

http://www.nutri.co.jp/nutrition/keywords/ch10-5/keyword4/

http://fanblogs.jp/kaigodou/archive/6/0

お断り

筆者は医療関係者や栄養学の専門家でなく筆者の体験を語っているだけであり、専門用語や内容に誤りがあることをご承知おき頂ければ幸いである。

食事記録の写真入りの詳細な記録は筆者のfacebook(https://www.facebook.com/toshiaki.oh)に詳細にアップしてある。2012年9月29日から10月22日まではアップしていないが、それ以降は急性期病院から、リハビリ病院の嚥下食の推移、入院中の車椅子での外出・外食までアップしているので、アクティビティ・ブログをご参照いただきたい。

王利彰 略歴

立教大学卒業後、レストラン西武(現・西洋フード・コンパスグループ株式会社)、日本ダンキンドーナツを経て、日本マクドナルド入社,運営統括部長、機器開発部長、などを歴任後,コンサルタント会社清晃を設立。
その他、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科教授、関西国際大学教授、などを歴任。現在(有)代表取締役
E-MAIL            oh@sayko.co.jp

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