米国外食産業の歴史とイノベーション 第1回目(日本厨房工業会 月刊厨房2011年3月号)

日本で外食産業が誕生したのは1970年だ。1970年1月にはフードサービスチェーン協会(現在の日本フードサービス協会の全身)が設立され、3月には大阪日本万国博覧会が開催された。その会場では、KFCやロイヤルが店舗を構えた。それを契機に、ミスタードーナツがダスキンと技術提携、三菱商事とケンタッキーフライドチキン社が合弁し日本ケンタッキーフライドチキン設立、レストラン西武(現西洋フード・コンパスグループ株式会社)が米国ダンキンドーナツと技術提携、すかいらーく1号店が東京・国立に開店、藤田商店と第一製パンと米国マクドナルドが合弁で日本マクドナルド㈱設立、と1970年から1971年の2年間で多くの日本企業が米国外食企業と提携と合弁会社を設立をおこなった。また、米国外食企業をモデルに日本企業は独自にファミリーレストランの設立等を行うようになった。

このように日本の外食産業は米国の外食産業から多くのノウハウと技術を直接、間接的に学んで外食産業を形成していった。当時の日本の外食産業がモデルにした米国外食企業は、ファミリーレストランではハワード�ジョンソン、サンボス、デニーズ、IHOPなどであり、ファスト�フードではマクドナルド、KFC、ミスタードーナツ、ダンキンドーナツ、などであり、それらの企業の歴史はよく知られている。しかし、それらの企業は突然に出現したわけではなく、色々な先行企業の努力の結果を取り入れてチェーン化を進めてきたのだ。日本では米国外食産業の研究は第2次世界大戦後、特に1950年代以降を中心にしており、それ以前の外食産業の歴史を明らかにした文献はほとんどない。そこで、1950年以前にどのようにして外食産業が誕生したのかを米国建国時代からさかのぼって調査をすることにした。
本書は王利彰と劉暁穎が共同で執筆するものである。経営的な観点は立教大学ビジネスデザイン研究科博士課程後期に在籍中で米国外食産業の経営技術史を研究している劉暁穎が担当し、調理システムや経営システムに関しては実際に米国ファスト�フード企業に従事した経験がある王利彰が担当する。

第一章 米国でのレストランの起源と高級レストランの興亡
1)米国における食の外部化の始まり
欧州からの移民が造り上げた米国は広い国土を開拓するために遠くまで単身で旅をしたり、仕事に行く必要があり、昼食で家に食べに帰る時間がなかった。それが、米国でレストランが発達し、後に革新的なファスト・フードが出来上がった原動力である。その過程を検証するためにまず、米国のレストランの歴史を移民時代から詳細に分析してみる。

1629年に米国に英国やドイツの移民が上陸し、食事のニーズがおきてレストランが誕生した。レストランの起源は人々が旅をする際の食事の提供として誕生するからで、この年バージニア州に2軒のビヤホールが存在した。
1637年には清教徒が2軒のアルコール提供店の開店許可を出す。1648年にニューアムステルダムにブランデー販売店、たばこ販売店、ビアホールが誕生し、1600年代の終わりまでにボストンには12軒ほどのタバーン(アルコールと飲食を提供する店)が開店していた。この当時のレストランは人々が集まってお酒を飲むのが主体であった。しかし、米国を造った清教徒は厳格な戒律を持っており、法制化などでたびたびお酒消費を抑えようとしていた。(後に宗教上の理由等から全国的な禁酒法となった。現在でも米国では州によっては日曜日にアルコールの提供は販売を禁止している。レストランで酒類を販売するにはリカーライセンスというライセンスを取得しなければならない)この当時のタバーンは街の有力者によって、街を訪問する人を歓待する目的で所有運営されていた。
1642年にニューアムステルダムの州知事は友人を接待する目的で自宅にタバーンを開設し、後に、人に貸しアルコールを販売する店舗となった。当時のレストランは簡単な食事を提供するだけであり、客はあまり選択の余地がなかった。多くの料理は暖炉にしつらえた鍋で煮込むものであり、人々は食事よりもお酒を飲むことを目的としており、料理にはあまり期待はしていなかった。1700年代の終わりには禁酒法的な規制が段々緩み、15歳以上の米国人は平均、年間、6ガロン(1ガロンは3.785リットル)のアルコールを飲むようになっていた。アルコールの多くはビールとサイダー(リンゴの発泡酒)であるが、場合によっては蒸留酒やワインも消費されていた。

1600年代の終わりには英国で流行していたコーヒーとチョコレートを提供するスタイルが米国に上陸した(その形態の店舗は1698年には英国に2,000店舗存在していた)。そのコーヒーとチョコレートを販売する形態の店舗は従来のゴロツキが飲んだくれているようなタバーンとは一線を画した存在となった。
1670年にボストンのドロシー・ジョーンズDorothy Jonesはコーヒーとチョ子レートを販売する店舗を開店した。そして同年にニューヨーク・マーチャンツ・コーヒー・ハウスNew York Merchants Coffee Houseが開店した。この形態の店舗はアルコールや料理も提供したが、上流階級の紳士に従来のタバーンよりも人気が出るようになった。
1794年にニューヨークのウオールストリートにトティン・コーヒーハウスTotine Coffehouseが開店した。店には水洗トイレ、風呂、喫茶室、メインダイニングルーム、マホガニー製の豪華な家具、クリスタルのシャンデリア、の豪華な内装であった。このコーヒーハウスCoffeehouseはタバーンよりも人気が出て1700年代には一般的になり全米に広がっていった。
1794年にフランスの有名な調理人が滞米し、料理の本を執筆したりしてフランス料理を普及させた。1700年代には米国を旅行するのは楽になってきた。道路網が整備され始め、1732年には最初の旅行ガイドブックは発行され、1771年には高速の4輪馬車でニューヨークとフィラデルフィアを1日半で結ぶまでになった。旅費用は宿泊と食事つきで20シリングであった。この時代に最も成功したのはニューヨークのサムエル・フランセスSamuel Frauncesで、1763年に3.5階建てのミーティング所を造り、ニューヨークを経由して旅をする人に人気を呼んだ。店舗にはビアホール、ゲームルーム、70席の客席、5つの寝室、とエレガントな内装を備えた。フランセスFrauncesは米国で初めて、ケータリングサービスや持ち帰りサービスを始めた。彼は大統領のジョージ・ワシントンにも料理を届けていた。このフランセス・タバーンFraunces Tavernは規模が小さくなったが現在も残っている。また、各都市の拡張に伴い労働者が移住してきて、彼らの宿泊するボーディングハウスBoardinghouseが増加していった。ボーディングハウスには宿泊施設だけでなく、レストランも備えていた。
1799年にはフィラデルフィアニには248軒のタバーンが存在した 。1805年にはニューヨークにボーディングハウスが121軒、ボーディングハウスとタバーンを兼ねていた店舗が42軒存在していた。

2)米国の高級レストランの始まり
1827年にスイス出身の船長のジョバンニ・デルモニコGiovanni Del-Monico(後に米国名ジョー・デルモニコJohn Delmonico)は米国に渡ったが、船乗りの仕事に疲れ、ニューヨークのバッテリー港に同僚であった船乗りを対象にした店舗を開店した。その成功ぶりをみて、彼はスイスに帰国し、お菓子職人だった長兄のピエトロPietroを説得しヨーロッパ風のお菓子やアイスクリーム、コーヒー、ワインを提供する店を1827年に開店した。(1815年にはフランス人が同様の店をブロードウエーに開店していたが)その店は大繁盛し、次に店舗の横にフランス・パリのレストランのようにフランス人シェフを使って本格的なレストランをビジネスマンに提供することにした。1831年に開店した店舗は白いリネンと磁器のお皿を使い、昼から暖かい料理を出すようにした。その店舗は大成功し、2号店を1832に開店した。その後、1号店が1835年に火事で焼失したが、1837年に再建した。店舗は本格的なフランス料理を10種類以上も提供した。この店舗は米国で最初のレストランではないが、家の外で食べる食事に本格的な料理を提供するファイン・ダイニング(高級レストラン)という初めてのカテゴリーである。1832年以降の米国大統領の全員、高名なミュージシャンや作家、など必ず同店を訪問するニューヨーク一のファイン・ダイニングの店となり、最盛期の1870年代には4店舗を経営していた。デルモニコDelmonico’sの他に、パーム・ガーデンPalm Garden,ジェントルマンズ・エリザベティアン・カフェGentlemen’s Elizabethan Caf?、レイディース・レストランLadies’ Restaurantの4店舗だ。

1800年~1825年には人口が増加し、レストランの繁盛に影響を与える。1800年には東海岸の大都市ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、バルティモアー、チャールストンの人口は20万人にすぎなかった。しかし、人口は急増し、その中心ニューヨークの1825年の人口は16万人になっていた。ニューヨークの人口が急成長したのは、港と株のウオールストリートがあったためである。
1830年から1860年の間の南北戦争が開始するまでの間の都市に住む人々の、外食はそう豪華なものではなかった。しかし、徐々に変化が生じ始め料理の味とサービスは変わり始めた。コーヒーハウスは消え去り始め、タバーンはサルーンに変わり始めた。ニューヨークのキャナル・ストリートではオイスター・バーの人気が出始めた。レストランは徐々に変化を見せるようになった。殆どの料理方法はフライで火が通り過ぎていたが、安くて量が多かった。また、レストランは綺麗(衛生的)になってきた。東海岸の他に人口が多かったのは元フランス領のニューオリンズで、1840年には全米で4番目の人口になった。フランス人、黒人(綿農園の奴隷)、スペイン人、インディアン、クレオール人、等が混在し、独特の食文化を築いていた。ミシシピー川を利用してメキシコ湾の牡蠣等の新鮮な魚介類とスパイシーなクレオール料理のレストランが誕生した。1840年にAntoine AlciatoreがAntoineを開店し、現在でも経営をしている。

3)高級レストランの繁栄
1865年に南北戦争が終わり、米国は人口急増の時代を迎える。1880年に米国の人口は5000万人、1890年には6300万人、1900年には7600万人、1910年には9200万人となった。この人口増のほとんどはヨーロッパやアジアからの移民である。1900年の大都市に居住する人口は全米の30%と南北戦争終結時の倍になった。
1880年代にニューヨークなどの大都市に居住する富裕層が増加し、高級レストランの時代を迎える。ニューヨークの人口は1880年には200万人となり、デルモニコDelmonico’s,に続いて、レクターRector’s, メイソン・ドリーMaison Doree, ルイス・シェリーLouis Sherry’s, ルチョーLuchou’s, ウオドルフ・アストリアWaldorf-Astoria等が開店した。1848年にはデルモニコDelmonico’sしかなかったが、1900年にはパリの高級レストランにも負けない豪華なレストランが軒を並べるようになった。1880年代のニューヨークには上記のレストランに加え、劇場に来場の顧客を対象に、新しいレストラン群、チャーチルChurchill’s、ムーレイ・ローマン・ガーデンMurray’s Roman Gardens、シャンリーShanley’s、ザ・ニッカーボッカー・グリルThe Knickerbocker Grill、マキシムMaxim’s、等が開店した。そして、ウオドルフ・アストリアWaldorf-Astoria等の高級ホテルが続々と開店し、館内に豪華絢爛な高級レストランを開業するようになった。また、ホテルの執事サービスが行われるようになり、高額所得者のあらゆる要望にこたえるようになった。この時代にニューヨークで最も注目された高級レストランはジョージ・レクターGeroge Rectorの経営する1899年に、5番街とブロードウエーの角に開業したレクターRectorであった。内装や家具はヨーロッパの高級素材を使ったデザインであり、食材も殆どをヨーロッパ各国から輸入した。フォアグラ、トリフ、カスピ海のベルーガ・キャビア、アルジェリアの桃、エジプトの鳩、1個50セントのヨーロッパからの苺、キューバからの高級葉巻、等、金に糸目をつけなかった。顧客は、時の大富豪、政治家、俳優、作家、等であった。この時代のもう一つのブームが、屋上のガーデンレストランであった。カフェ・ブルーバードCaf? Boulevardが1880年に屋上のガーデンレストランを開店し、その後、ホテルのカジノ・イン・ザ・パークCasino In The Parkが屋上ガーデンレストランを開き、ホテルの屋上ガーデンレストランブームとなり、ホフマン・ハウスHoffman House,セント・レジスSt.Regis、ウオドリア・アストリアWaldorf-Astoriaが追随した。

ホテル・アスターHotel Astorは1000席の客席と、蔦を這わせた東屋、庭、滝、等を備えた見事なデザインを売り物にした。しかし、このころの高級レストランは社交の場であり、女性が1人で食事をすることができない保守的な存在だった。女性一人で入ろうとしてホテルに断られそれに抗議をする女性が話題になるほどであった。また、この頃には、生牡蠣や伊勢海老(ロブスター)を専門にする巨大な店舗が人気を呼び、冷蔵技術の進歩と冷蔵庫の普及により遠距離の輸送が可能になり、1800年代の終わりには主要な大都市には1店舗存在した。国民一人当たりの生牡蠣消費量を見てみると、英国は120個、フランスは26個に対し、同時期の米国は年間一人当たり生牡蠣を660個消費するようになった。その頃の生牡蠣専門店はシカゴのレクターズ・オイスター・ハウスRector’s Oyster Houseがあり、魚介類、野鳥、サラダ、ハムやベーコンなどの調理済みの肉、チーズ、ワイン、ブランデー、ビール等が提供されていた。魚介類は12種類の生牡蠣、伊勢海老(ロブスター)、ハードシェルクラブ(堅い殻の蟹)、ソフトシェルクラブ(脱皮したての柔らかい渡り蟹)、新鮮な海老、など豊富に提供していた。ニューヨークでは現存している、グランド・セントラル・ターミナル中央駅Grand Central Terminalのセントラル・オイスターバーCentral Oyste Barが1913年に開店し、12種類の生牡蠣を毎日提供していた(現在でもその当時のまま経営をしており、東京にも提携して店舗を構えている)。そして、高級レストランは全米の大都市に続々と開店していった。ボストンのザ・パーク・ハウスThe Park House、セントルイスのプランターズPlanters、デンバーのブラウン・プレイスBrown Places、サンフランシスコのセント・フランシスSt.Francis、シカゴのパーマー・ハウスPalmer House、ワシントンD.C.のハーベーズHarvey’s,フィラデルフィアのグリーンズGreen’s、ルイビルのシールバッハSeelbach、シンシナティのシントンSinton、等だ。シカゴのパーマー・ハウスPalmer Houseは1871年に開店して以来、野生の鶏料理を提供することで、中西部の高級レストランの模範となった。

1896年に開店した、フロリダのホテル・マイアミHotel Miamiはカリブ海の新鮮な魚を売り物にした。デンバーのザ・ウインズThe Winds(西部のレストランで初めて女性一人の入店を認めることで有名になった)は、プレイリードック(北米大草原のリス科の動物)、バッファロー(野牛)、アンテロープ(レイヨウ、野生のウシ科の動物)、鹿、熊の掌、等の珍しい食材を調理して提供した。1875年に開店したサンフランシスコのザ・プレイスThe Placeはオイスター・ロックフェラー(牡蠣の上にほうれん草、エシャロット、バターにハーブをのせ、パン粉を振って、パルメザンチーズをかけた料理。こんな高級な素材を調理して食べるのは、石油王ロックフェラーぐらいしかいないということから命名された)等の斬新な料理を提供した。当時の高級レストランの料理は食事の提供開始時間が決まっており、料理もコース料理で好きな料理を選ぶことができない、アメリカン・プランが普通だったが、フランス風のアラカルト料理のように自分の好きな料理を選んで、好きな時間に食べられるフレンチ・プランという食べ方が1830年代にニューヨークのタマニー・ホール・ホテルTammany Hall Hotelで紹介され、人気を呼び、1870年頃から他の高級レストランに普及しだした。当時の米国高級レストランの料理は現地の食材を使い、ニューヨーク高級レストランのデルモニコDelmonico’sの料理方法を見習っていた。その後、フランス料理の教本を造った、有名なシェフのオーガスト・エスコフィエAuguste Escoffierが1910年にニューヨークの高級ホテル、リッツ・カールトンの調理長となり、その洗練された調理法が米国に紹介され、高級なレストランの料理の基準が出来上がっていった 。
1840年頃から1860年代の南北戦争の時代前までに社会基盤の整備が始まり、高級レストランが洗練された料理を造れるようになった。鋳鉄の調理用ストーブ(上にガスコンロ、下にオーブンが付いているレンジ)、上水道の整備(ニューヨークでは1842年に45マイル離れた貯水場から上水道を引いた)、冷蔵システムの出現、冷蔵システムによりアイスクリームの年間販売を可能に、石臼の荒い小麦粉から鉄製のひき臼によるきめ細かい小麦粉、缶詰食品技術の完成により世界中から食材を供給できる、等である。また、当時は、乳製品は鮮度が重要であり、信頼できる乳製品は少なかったが、鉄道の発達によりニューヨークでは1843年には近郊から新鮮な乳製品を供給されるようになった。コンデンス・ミルクの製造方法が1856年にゲイル・ボーデンGall Bordenによって発明され、1890年までには乳製品の低温加熱殺菌方法が米国全体で取り入れられるようになった。1908年にはニューヨークの25%、ボストンの33%の牛乳は低温加熱殺菌処理されていた。塩漬け保存加工の牛肉や豚がまだ一般的であったが、冷蔵施設の完備により生の牛肉に人気が出てきた。しかし、屠殺場や保管上が不衛生なため問題が発生し、1906年頃には国が衛生基準を定めるようになった。しかし、まだ、野生の鳥や動物の料理に人気があり、それぞれの高級レストランで独特の食材の調理を行っていた 。

4)高級レストランの衰退
1910年頃が全米の大都市における高級レストランの全盛期であった。南北戦争が終わったころからハードリカー(ウイスキーやブランデーなどの蒸留酒)の消費は低下するという社会現象が起きだしたが、ビールなどの弱いアルコール分のお酒は1860年に対して1890年には3倍の消費量になっていた。
1917年に米国が第一次世界大戦に参入し、米国人の若者が徴兵でヨーロッパに派遣され戦うという暗い時代になった。そのため、派手な高級レストランで飲食するという消費形態に冷たい目を向けられるようになった。また、ドイツと対戦したため、ドイツ系の高級レストランに批判を向けるようになった。そのような環境の中で、ニューヨークの高級レストランの元祖のデルモニコDelmonico’sは1916年に閉店し、ルイス・シェリーLouis Sherry’sも3年後に閉店、レクターRector’sも不振状態に陥った。
1919年に高級レストランの全盛期を脅かす禁酒法(Prohibition)が施行された。そして、レクターRector’sは静かに扉を永遠に閉じたのであった。その後の禁酒法の時代は密造酒を販売するもぐり酒場の時代であり、高級レストランが戻るには長い年月が必要であった。 元々米国は戒律の厳しい清教徒が造った国であり、アルコール消費には厳しい目を向けていた。1919年に施行された禁酒法を施行に導いたのはカンサス州女性運動家のキャリー・ネイションCarry Nationが1899年に開始した反対運動である。さらに1893年にはワシントンD.C.ではアンチ・サルーン・リーグAnti・Saloon Leagueが結成され、お酒を飲む場とお酒製造に反対するようになった。この禁酒法を訴える背景には当時の酒場の多くが売春宿も併設しているということだった。1876年のフィラデルフィアでは8000店の合法、非合法の酒場があり、そのうちの半数が売春宿を併設していた。また、アルコール中毒の多くは都市に居住する貧困層であり、彼らはヨーロッパからの移民、特にドイツやユダヤ系の移民が安い賃金で働くことで仕事を奪われていた。また、ヨーロッパはお酒を許容する文化であり、その移民が飲酒を助長している、特にドイツ系の移民がビールの醸造やビアホールの経営をすることに対する反発も発生した。実際にはイタリア系やユダヤ系の飲酒率は米国人よりも低かったのであった。その傾向をさらに悪化させるのが、第1次世界大戦のドイツとの戦いであった。禁酒法の施行により大都市の多くの高級レストランやホテルは閉鎖に追い込まれた。その結果、ギャングによる違法酒場スピークイージーSpeakeasy(ひそひそと話すという意味からつけられた)が誕生するようになる。また、警察や地方公共団体の堕落による汚職が横行し、それらの違法酒場の営業を黙認していた。この禁酒法の結果、当初予測ではかえってお酒の消費量が増えると見込んでいたが、実際は禁酒法施行前の消費量に対して1/2~1/3の消費量と大幅な飲酒量の減少となった。そして、飲酒量が禁酒法施行前のレベルまで戻るのに10年以上かかった。さらに、1人当たりの年間アルコール消費量が1ガロン増加するのにその後30年必要であった。
1933年12月5日に禁酒法は解除となったが、その間に米国の高級レストランは殆どなくなっていた。禁酒法が解除になる前後には大恐慌が米国を襲い、高級レストランにはさらに逆風となった。高級レストランが元に戻るには10年ほどの年月が必要であった。
続く

参考文献
Mariani John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

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