米国外食産業の歴史とイノベーション 第7回目(日本厨房工業会 月刊厨房2011年9月号)

第7章 3代目フレッドの挑戦と事故死、フレッド�ハーベイ社の終焉

3)第1次世界大戦後 の3代目フレッドの活躍
1923年の頃にはフレッド�ハーベイ社の社員は7000人になり、フォードや義理の弟の
ハッケルは50代になっていたし、後見役のベンジャミンも60歳になり、2名の兄弟が亡
くなったこともあり、会社から引退をして社会貢献の道を歩みたいと思うようになってい
た。
そこでフォードはフレッドを後継者にしなければいけないと考えるようになった。しか
し、フレッドはフォードがグランドキャニオンを開発したように、自らも何か実績を残さ
ないといけないと考えるようになった。

フレッドが着目したのは自らが空軍に従軍して身につけた飛行技術を生かせる航空産業
だった。父親のフォードは飛行機は危険だからと反対したが、航空産業は急速に発展しつ
つあった。そのきっかけはニューヨークで有名ホテルを2軒経営していた資産家のフラン
ス人レイモンド�オルテイグRaymond Orteigが1919年にニューヨークとパリの間の大西洋
を無着陸で飛んだ者に25000ドル(現在価値で311131ドル)の賞金を出すというOrteig
Prizeを発表したことからだった。何人もの飛行士が挑戦し失敗した後、セントルイスに住
む若い航空便の飛行チャールズ�リンドバーグCharles Lindberghが1927年春に初の大西洋
単独飛行に成功した。フレッドは空軍時代の1925年、退役軍人向けの飛行訓練に参加し時
に、タバコや飲酒もしない生真面目で勇敢なリンドバーグに知りあった。また、フレッド
はカンサスシティの飛行クラブに所属しており、リンドバーグのプロジェクトをサポート
したセントルイスの飛行クラブの富裕層を良く知っていたのだった。この飛行クラブのメ
ンバーのセントルイス銀行家のハリー�ナイトHarry Knightがリンドバーグの大西洋横断
のプロジェクトを支援する組織を造り資金を集め、新しい飛行機 ザ�スピリット�オブ�セ
ントルイスthe Spitit of St. Lousiを建造した。投資家の目的は初の大西洋横断に成功すれば
セントルイスが注目を集め、航空産業を興せると考えたのだった。セントルイスを中心
としたミズーリー州は洪水被害で悲惨な状況であり、何か良いニュースをもたらしたいと
思っていたのだった。リンドバーグは1927年5月20日金曜日の朝7時52分にニューヨー
クを単独で飛び立ち34時間後にパリに無事に到着したのだった。この成功によりリンドバ
ーグは一躍英雄となった。その成功を見た、37歳の資産家の息子ハリー・ガゲンハイムHarry
Guggenheimは父親に3ミリオンドル(現在価値で36ミリオンドル)を寄付させ、全米にリ
ンドバーグとその飛行機を巡回展示させた。リンドバーグは3ヶ月間で米国内の90の市を
飛び回り、講演を150回も行った。巡回飛行の間、フォード社を設立したヘンリー�フォー
ド等の有力者や、富裕層、政府高官、映画スター、を同乗させ飛行機の素晴らしさをアッ
ピールした。

1928年にリンドバーグとフレッド、ナイトはリンドバーグが購入した新型のロッキード
社の4座席の飛行機に乗り、航空便などのビジネスの可能性を討議した。そして、ナイト
はセントルイスの資産家を組織し、米国発の大陸横断航空会社を設立することにした。
その頃の飛行機は夜間飛行できないため、昼間に高速で飛行し次の飛行場に着陸し、夜
間は列車で旅を続け、朝に別の飛行機に乗り換えるという手間が必要だった。当時、ニュ
ーヨークからロサンゼルスに列車で行くと3日間かかっていたが、飛行機だとわずか2日
間になったのだ。その1ヵ月後に大陸横断をする航空会社トランスコンチネンタル�エア
ーTranscontinental Air Transport(TAT)の設立がウオールストリートジャーナルに報道され
た。この会社の設立をまとめたのは富豪ロックフェラー家が後ろ盾のウオール街の金融企
業ブレアー&カンパニーBlair & Companyで総額5ミリオンドル(現在価値で63ミリオンド
ル)を調達した。新会社への投資家は初飛行をしたライト兄弟、飛行機エンジンの製造を
始めるグレン�カーカーチスGlenn Curtiss、ヘンリー�フォード(自動車だけでなく飛行機用
のエンジンも製造を始めた)。その他、鉄道会社との提携も必要であり、鉄道会社のペンシ
ルバニア鉄道は総株式の20%を出資、フレッド�ハーベイ社とフレッド個人も出資をした。
サンタフェ鉄道は航空機乗客の夜間の鉄道での運行には協力するが、航空産業とは競合
になる可能性があるとして出資を見送った。フレッドがフォードを説得してフレッド�ハー
ベイ社が投資したかは定かではないが、当時の記録を見ると個人投資家は2名であり、1人
は鉄道王のウイリアム・バンダービルトWilliam Vanderbilt、もう1人はフレッド個人であっ
た。フレッドは亡くなった母親の遺産を10万ドル(現在価値で1.2ミリオンドル)を相続
していたので十分な資金はあった。その数日後リンドバーグは新会社に参画し、14席の旅
客機の飛行ルートの作成などを担当し、便名をリンディ�ラインLindy Lineと命名すると発
表した。

旅客機の大陸横断運賃は375ドル(現在価値で4713ドル)であり、大陸横断鉄道のファ
ーストクラス運賃より40ドル(現在価値で503ドル)高いだけであった。
1928年11月にハーバート�フーバーHerbert Hooverが新大統領に選出された。その年か
ら翌年にかけてはウオール街は大盛況で米国の景気は沸騰していた。鉄道会社や製造産業
はその絶頂期を迎えていた。新しい産業も誕生していた。道路がどんどん延長され、自動
車の製造が大量に行われるようになった。また、文化面では音声入りの映画の技術が完成
し映画産業も勃興していた。
この1920年代は外食産業にとっても良い時代で、主婦の共稼ぎが増加し、外食をするよ
うになり外食産業は急成長していた。フレッド�ハーベイ社はこの外食産業の好景気の中で、
他のレストランやホテルの企業にビジネスモデルを模倣されるようになっていた。フレッ
ド�ハーベイを模倣して急成長した企業にニューヨークのチャイルド�カフェテリアChilds
Cafeteriaがある。彼らはあっという間に125店舗を開店した。しかし、ニューヨークなどの
都市の地価は高く、彼らが年間に支払う賃料は48ミリオンドル(現在価値で603ミリオン
ドル)にも及んだ。このような経費を調達するためにチャイルド兄弟は株式上場をした。
しかし、1928年秋には、大手出資者の化学製品製造のデュポン社、石油会社のスタンダー
ドオイル社はチャイルド兄弟を経営陣からはずしてしまった。

1928年にはフレッド�ハーベイ社は25軒のホテル、40店のフルサービスレストラン、54
店の軽食店、サンタフェ鉄道沿いの80の市に新聞スタンドとギフトショップを展開してい
た。その他にシカゴ、カンサスシティ、セントルイス、ヒューストン、ウイチタ、バルヴ
ェストン、フォートワース、のユニオンステーション内にレストラン、飲料店、小売店を
展開していた。また、グランドキャニオンなどの高級リゾートホテルを経営していた。フ
レッド�ハーベイ社は年間に1200万食を提供する一大外食産業となっていた。また、自
動車の普及を見据えて、当時の大陸間横断ハイウエイのルート66沿いにドライバー向けの
レストランの展開も始めたし、フレッドは新しい航空産業に参入し、空港内のレストラン
やホテル、小売店を、ユニオンステーションのように成功させる将来像も描けるようにな
っていた。

しかし、創業50周年を迎えたフォードはチャイルド�カフェテリアの株式公開後の悲惨
な状況をつぶさに見て会社を株式公開することを断念し、家族経営で継続する道を選んだ。
フレッド・ハーベイ社を大成功させたフォードであったがただ1つの誤算は後継者育成
方法と後継者をサポートする補佐役を明確に定めていなかったことだった。
そして不幸なことに、その頃に流行した伝染力の強いインフルエンザにフォードは罹患
してしまった。1928年から29年の間に米国人の10万人以上が亡くなり、あるインディア
ンの部族は人口の1割が亡くなるという悲惨な状況だった。その結果罹患してから数日後
にはフォードは62歳という若さでこの世を去ってしまった。
フォードの遺産は、地方公共団体などの発行する公債が1ミリオンドル(現在価値で12.6
ミリオンドル)、銀行預金75000ドル(現在価値943000ドル)、株式600000ドル(現在価
値7.5ミリオンドル)、フレッド�ハーベイ社の株式1200000ドル(現在価値24ミリオンド
ル)、その他、2つの豪邸だった。遺産は長男のフレッドと長女のキティKittyの2名が相続
することになった。フレッド�ハーベイ社のビジネスはフレッドが99%相続し、フォードの
補佐をしていたベンジャミンと第10軍団(忠実な経営陣)がサポートをすることになった。
しかし、面子を立てるため、フォードの無能な弟のバイロンをタイトルだけの社長に就
任させ、フレッドに実力が付くまでの暫定的な役割を持たせた。

フレッド�ハーベイ社の業績は順調であったが、1929年9月の第一週の週末にフレッド
の出資した航空会社TATの旅客機が墜落し8名の乗客が亡くなってしまった。このニュ
ースにより1929年9月9日の株式市場で航空産業の株式だけでなく、鉄道産業の株式ま
で暴落した。さらに政府は航空機の安全をチェックするために、鉄道会社をコントロール
している悪名高い州間通商委員会に調査を明示、航空会社の株価はさらに下落することに
なった。この事故によりフレッドの航空産業への野望は停滞することとなってしまったが、
フレッド�ハーベイ社の業績は過去最高であり、会社の行方には問題がないように見えた。
しかし、株式相場はその後1929年10月24日の暗黒の木曜日Black Thursdayという世界
恐慌を迎え株価は暴落した。株式を公開していないフレッド�ハーベイ社には株価の下落は
何の問題も引き起こさないし、サンタフェ鉄道も通常通り運営しており、レストランの利
用者の減少もそんなにひどくはなかった。しかし、恐慌は長く継続し、段々とフレッド�ハ
ーベイ社の業績に影響がでるようになった。

1935年には恐慌もやっと落ち着き経済の回復を見られるようになってきた。航空産業も
息を吹き返し、政府の規制のため、航空便会社と旅客航空会社が合併をさせられ、TATは
大陸間横断と西部航空会社Transcontinental &Western Air(TWA)と名称を変更した。さらに
夜間飛行も可能になり、乗り継ぎの列車の調達も不要になり、名実とともに独立した交通
機関となった。そして、TWAの主要な株が投資金融機関のリーマン・ブラザースLehman
Brotheersとパートナーのジョン�ハーツJohn D.Hertz(レンタカーのハーツを創業し、パラ
マウント映画の再建をした有名な投資家)に売却された。フレッドはハーツのような有能
な経営者により航空会社の経営は安定し、フレッド�ハーベイ社も航空産業に店舗を出す可
能性があると将来性の可能性を夢見るようになった。
1936年1月まだ子供のいないフレッド夫妻はニューヨークを訪問した。帰りにフレッド
はビーチクラフト社が発売した最新の個人向け飛行機、ビーチクラフト�スタッガーウイン
グ17型Beechcraft B17 Staggerwingという性能の良い飛行機を17000ドル(現在価値で264000
ドル)で注文した。その飛行機は3月に完成し、4月16日にその飛行機で妻と一緒にニュ
ーヨークら山越えでカンサスシティに帰ろうとした。途中の空港で着陸し給油し山越えに
かかろうとしたが悪天候でTWAの係官は危険だから山越えを中止するように忠告した。
しかし、空軍で鍛えた腕と新型の飛行機の性能に自信を持っていたフレッドは忠告を聞か
ずに飛び立った。厚い雲の中に入ったフレッドだがビーチクラフトに着氷し、コントロー
ルが不可能になり、山間部に激突し夫妻ともに即死をする悲劇を引き起こしてしまった。
不幸なことにフレッド夫妻に子供はいなく、後継者問題が起こってしまった。相続をし
たのはキティであったが、会社のコントロールは男性という不文律をたてに、叔父のバイ
ロンが会社を実質的にコントロールすることになった。

バイロンはレストランやホテルの経営のセンスは全くなかったが、サンタフェ鉄道の利
用者が多いうちはそれでも問題はなかった。しかし徐々に自動車や航空機の普及により列
車が交通手段の主役の座から徐々に滑り落ちるようになって行った。フレッドやフォード
であれば野心を持ってフレッド�ハーベイ社のレストランやホテル運営の技術を生かして、
他の立地で立派にチェーン展開して成功出来たろうが、バイロンにはそんな野心はなかっ
た。そのため、不採算のフレッド�ハーベイ社の駅のレストランやホテルを廃止したり、サ
ンタフェ鉄道に売却をするようになっていった。その中でバイロンは1つの良い決断を下
した。それは1954年にサンタフェ鉄道よりグランドキャニオンの高級ホテルを2ミリオン
ドル(現在価値で16ミリオンドル)で買い取ったことだった。このホテルの運営でフレッ
ド�ハーベイ社は存続が可能になったのだった。
バイロンは1954年に癌でなくなり、1966年時点でフレッド�ハーベイ社が運営していた
のはグランドキャニオンのホテルの他に3軒のリゾートホテル、10軒弱のユニオンステー
ション、給食施設、にすぎなかった。しかし、その資産を元に株式公開を行い2.9ミリオ
ンドル(現在価値で19.2ミリオンドル)を調達した。しかし、その2年後にハーベイ家族
は全ての株をハワイのAmfacという大きな企業に売却してしまい、名実とともにフレッド�
ハーベイ社は消え去ってしまい、92年間のサンタフェ鉄道との関係も消滅してしまった。
その後1971年5月には政府が不振の鉄道会社支援のために全長距離鉄道会社を一社にま
とめてAmtracを設立し、サンタフェ鉄道も消え去ってしまった。
第8章 文化的な影響
1)ハリウッド
米国初のレストラン、ホテル、小売業、のチェーンであったフレッド�ハーベイは消え去
ってしまい、今では誰も知らない企業となってしまったが、いまだに、米国人に文化的な
影響を与え続けている。その1つが映画だ。映画産業はニューヨークで出来たが、特許家
のエジソンの特許権訴訟に嫌気をさして、東海岸から遠く離れたハリウッドに本拠地を移
転した。そして、サンタフェ鉄道を利用してラスベガスやグランドキャニオン、サンタフ
ェなどの地区で人気であった西部劇を撮影して、西部の光景すなわち、フレッド・ハーベ
イやサンタフェ鉄道沿いの光景を米国人に植えつけたのだった。フレッド�ハーベイを描
いたのはハーベイ�ガールズというジュディー�ガーランドJudy Garland主演の映画で、日
本でも公開され、今でも日本語版のVTRが販売されている。
その他、フレッド�ハーベイ社のレストランが出てくる映画は数多くあり、米国人にとっ
ての郷愁を覚えさせるレストランのスタンダードとなっている。

2)ウオルト�ディズニーとディズニーランド
このフレッド�ハーベイの影響を最も受けているのがウオルト�ディズニーだ。ウオル
ト・ディズニーはサンタフェ鉄道沿線で育ち、子供の頃、兄と一緒にブッチャーという駅
で軽食などのワゴン販売をするアルバイトをしていた。兄は実際にフレッド�ハーベイ社の
仕事をしていた。
その懐かしいサンタフェ鉄道で妻と乗車していたウオルトは車内でミッキーマウスのコ
ンセプトを考え付いたのだ。ウオルトは自身のアイディアなどを余り人に話さないが、成
功した後に、会社の部下と一緒にハリウッドからシカゴまでサンタフェ鉄道を利用して旅
をすることがあり、その時に、サンタフェ鉄道の車掌がウオルトに機関車で運転をさせて
くれた。一日中警笛を鳴らしながら運転したウオルトがあまりのうれしさから、ミッキー
マウス誕生の秘話を語ったのだった。
実際、ディズニーランドで園内外周に設けられた小型蒸気機関車が牽引する鉄道がある。
その沿線の光景がサンタフェ鉄道の光景なのだ。特に山やインディアンの集落はサンタフ
ェ鉄道沿線そのものなのだ。また、アナハイムに作った最初のディズニーランドの蒸気機
関車の運転手の名前をサンタフェ鉄道社長だったリプレイから拝借している。園内のレス
トランのクラッシックなメニューや内装はフレッド�ハーベイのレストランをそっくり取
り入れていた。
このように映画やディズニーランドにフレッド�ハーベイは大きな影響を与え、米国人の
頭に知らずにフレッド�ハーベイのレストランやホテル、そしてサンタフェ鉄道沿いの光景
が記憶されているのだ。

3)フレッド・ハーベイのまとめ
西部劇で有名なワイアット・アープやドク・ホリデーの「OK牧場の決闘」が起きたのは、
1981年10月26日だが、その年にはフレッド・ハーベイは品質とサービス、クレンリネス
と言う厳格なシステムを基にホテルとレストランをすでに16店舗チェーン展開していたの
だ。その後、ホテルやレストランを100店舗以上チェーン展開した、チェーンビジネスの
元祖だ。
もし、3代目のフレッドが航空機事故で亡くならなければ、TWAの株主としてエアーラ
インの食事を提供したり、飛行場でのレストラン経営を行うことができただろう。飛行場
に宿泊用のホテルをチェーン展開していたかもしれない。
フレッド・ハーベイの影響でチェーン展開を始めたA&Wルートビアーのチェーンのフラ
ンチャイジーになったマリオットは、後に機内食や飛行場のレストランのチェーン展開を
したり、マリオットホテルチェーンを築き上げたが、3代目フレッドが元気であれば、マ
リオットに先んじたエアーラインビジネスを築き上げただろう。
フレッドの友人であった飛行家の、ハワード・ヒューズHoward Hughesは航空機産業に
乗り出し、後にTWA(フレッドが出資していた米国初のエアーライン)を買収し航空機製造
を始め、更にラスベガスに巨大なホテルビジネスを確立した。フレッドも、ヒューズのよ
うに巨大な航空機産業を起こしたかもしれない。
そんな「もし・・・だったら」と思わせる夢のある時代のホテル・レストランチェーン
であり、後にホテルやレストランのチェーン化を行う起業家に多大な影響を与えたのだっ
た。ちなみにフレッド・ハーベイに大きな影響を受けたウオルト・ディズニーが第2次世
界大戦で従軍していた際の同僚にマクドナルド・コーポレーションを創業したレイ・クロ
ックがいる。そのレイ・クロックは戦前からセールスマンとして全米を鉄道や飛行機で飛
び回っており、フレッド・ハーベイ・レストランを利用したり、ウオルト・ディズニーに
フレッド・ハーベイの話を聞いて影響を受けていたのかもしれないと思うと楽しくなる。

4)他の外食産業への影響
フレッド�ハーベイのレストラン運営は米国の多くのレストラン運営のスタンダードと
なり、多くの外食企業を誕生させた。ニューヨークのカフェテリアのホーン・アンド・ハ
ダートやA&Wルートビアー、ハワード�ジョンソンなどだ。そして、最も影響を与えたと
思われるのが、フレッド�ハーベイが本拠地を構えていたカンサスシティに誕生したホワイ
ト�キャッスルという米国で初めてのハンバーガー�チェーンだ。

参考HP
ハーベイ・ハウス(建物外観の写真)
http://www.harveyhouses.net/
プルマン博物館
http://www.pullman-museum.org/
当時の米国鉄道状況
http://www.usrail.jp/pt-2pullman.htm#no1

以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops,
Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and
Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now
Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America
Bantam Books

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