米国外食産業の歴史とイノベーション 第10回目(日本厨房工業会 月刊厨房2011年12月号)

第12章 イングラムの次の戦略

ハンバーガーの品質を上げ、店舗の外観を清潔で目立つようにしたイングラムは次にパブリシティの強化に取り組むことにした。イングラムはホワイト・キャッスルが高品質のハンバーガーを衛生的で綺麗な店舗でスピーディに販売することはレストラン業界においては革命的なことだと信じており、それをどのように世間に訴えればよいかを考えだした。イングラムは当時の人々がハンバーガーに対して抱いていたイメージに対して「従来のハンバーガーはいかがわしく、薄汚い下町の汚いビルの片隅で提供される食事や、サーカスなどで販売される怪しい食事と言うイメージがあったが、それは過去の事だ。ホワイトキャッスル社は脂ぎった汚いハンバーガーのイメージを根本から変えるのだ。」と、イメージアップの必要性を感じていた。
具体的な対策として
1.クレンリネスの対策
薄汚いイメージを刷新するべく、使っている調理器具や調理機器をピカピカに磨き上げる。
2.スピードへの対策
ランチタイムに従来のレストランに行けば30分も待たされるが、ホワイト・キャッスルで買って持ち帰り友人たちと食べれば待たずに済むとテイクアウトを訴求する。
3.品質への対策
ハンバーガーはひき肉を使うが、どの部位を使っているかは消費者にはわからず、腐りかけた肉や牛肉以外の肉や内臓肉を使うのが当たり前の時代であり、それを知っている消費者のハンバーガーに対するイメージは低いままであった。そこでイングラムとアンダーソンはひき肉にする部位を牛肩肉(筆者注:現在の米国ではGround Chuckと言う部位になる)のみにすることにした。そして、その良い肉を使っていることをウイチタイーグル新聞(Wichita Eagle)紙の取材に対して「ホワイト・キャッスルのひき肉は肉屋から毎日2回から4回に分けて配送させ、何時も新鮮な牛ひき肉を使用している。その日に残った牛ひき肉は返品をする。肉屋から出荷後4~5時間以内に挽肉は店舗で焼きあげている。それ以上時間が立った古いひき肉を使用することはない。当社は牛の特定の部位のみを使用し、他のクズ肉を使用することはない。肉は潰さず、丁寧にひき肉にする。潰すと肉の細胞が壊れ、美味しい肉汁が出てしまうからだ。そのため、当社のひき肉を加工する肉屋は特別なひき肉製造用の機器に対して1500ドルを投資しているのだ。」とひき肉の品質にこだわっていることを強調した。
この当時のひき肉は腐りかけた肉や内臓肉等の販売できない肉を使用するのが当たり前であった。当時の作家のアーサー・カレットArthur Kallet著の「1億のモルモット100,000,000 Guinea Pigs」と言う本が当時の食肉加工業界の暗部を以下のように警告している。

「ハンバーガーを食べることはヒ素を噴霧している庭を歩くことや、日差しの強い場所にあるゴミ箱の中に保管してある肉を食べるのと同じくらい安全なことだ。多くの肉屋はこのゴミ箱のように不衛生な状態でひき肉を製造し、そのひき肉をハンバーガーに使っているのだ。肉類の防腐剤や漂白剤に使う亜硫酸ナトリウムsodium sulfiteは調査した76のハンバーガーのうち71個から検出された。添加剤を使う目的は新鮮な肉のような色や状態に見せるだけでなく、肉の腐敗臭を消し去ることでもある。ハンバーガーを食べることは腐敗した肉を食べる危険だけでなく、添加剤の亜硫酸ナトリウムにより消化器や肝臓に深刻な障害をもたらす。」
同様な指摘は,フレッド・シュリンクFrederick J. Schlink執筆のEat, Drink, and Be Waryでカレットの警告、ひき肉に亜硫酸塩ナトリウムの混入があることに同意し、さらに
バンズに臭素酸カリウム potassium bromate(筆者注:パン生地、魚肉練り製品などの改良材として用いられ、腎臓における発癌性が指摘され、使用禁止・制限の国や食材がある。)を使用している可能性があると危険性を指摘している。食評論家のダンカン・ハインズDuncan Hinesは消費者がハンバーガーを食べる時には、ひき肉への混ぜ物や衛生問題の危険があると指摘している。

これらのハンバーガーに否定的な世間の評判に対してイングラムとホワイト・キャッスル社はハンバーガーの品質に対する悪いイメージを変えようと努力を開始した。イングラムは科学的な研究を行い世間の評判を変えようと、1928年5月に食品実験部Food Experiment Departmentをウイチタ市イースト・ダグラス通りEast Douglas Avenueに開いた。食品実験部の目的は2つあり、一つ目は商品開発のテストキッチン、二つ目は品質管理研究だった。ここでは実際の顧客に安価に商品を販売しながら商品開発と研究を行った。1930年にはミネソタ大学University of Minnesotaの生理化学科Physiological chemistry Departmentに依頼してホワイト・キャッスルのハンバーガーの栄養的な価値の研究を行った。同科の研究生に13週間ホワイト・キャッスルのハンバーガーを1日当り20~24個と水だけで生活させた。その結果、学生は13週間の間健康的な生活を送ることができた。そして、食物科学の専門家は通常の健康的な子供がホワイト・キャッスルのハンバーガーと水だけで生活しても健康状態や体や脳の成長にも全く問題ないというレポートにサインをしてくれた。(筆者注:2004年に米国で公開されたスーパーサイズ・ミーと言うマクドナルドのハンバーガーを30日食べてどうなるかと批判的なドキュメンタリー映画があったが、それとは逆に健康上のメリットを訴える実験を行なっていたのが興味深い)
このミネソタ大学とイングラムの研究はハンバーガーが体に問題がないだけでなく、健康的であることを実証し、ハンバーガーを食べたことのない人々に安心してホワイト・キャッスルのハンバーガーを試させることができた。それでもまだハンバーガーに懐疑的な人々に対しては、ホワイト・キャッスルのハンバーガー・パティとバンズは毎日2回運び、常に新鮮な材料を使うことを事ある毎に主張して消費者への啓蒙活動を行なっていた。

1920年代の最初の頃にはホワイト・キャッスルの売上が急上昇し、当初食材を供給していた食料雑貨商のウイリアム・ダイWilliam A.Dyeはホワイト・キャッスルの売上規模に対応できなくなり、イングラムは品質面で高い評価をされていたアーノルド・ブラザーズ・ミート・カンパニーArnold Brother’s Meat Companyからひき肉を仕入れるようになっていた。これらのイングラムの努力によりホワイト・キャッスルの品質に対する評価は高まっていき、同社の熱烈なファンが増えてくるようになった。そして、イングラムは「我々のどの店舗でも全く同じ高品質のハンバーガーを提供できなければいけない。我社は利益よりも高品質のハンバーガーを重視しなければならない。」と社内を叱咤激励していた。
ホワイト・キャッスルの衛生的なイメージを高く保つために、同社はクレンリネスを強化した。店舗で働く従業員の従業員規則を厳格に定め、体を健康に保ち身だしなみに気をつけるようにさせた。従業員面接の際には、18歳~24歳の若い男子、きちんとした服装と身だしなみ、良い性格、高校卒業以上の学歴、等を採用条件とした。面接の前に提出させる履歴書と申込書には、家族の経歴と仕事、本人に過去の職歴や学歴、など詳細な全ての情報を明記させるようにし、事前の審査で慎重にチェックを行うようにした。面接だけでなく、身体能力までチェックし、顧客に良い品質の原材料を健康的な従業員が調理をしているのだということを訴求した。
従業員は採用後に、会社の服装規定を熟知させ、綺麗な白い長袖ワイシャツと黒の蝶ネクタイ、穴の開いていない白いズボンを着用させた。長袖のワイシャツは丁寧に腕まくりさせた。その清潔なユニフォームを維持させるために、洗濯とアイロンがけは会社が負担して行い、常にシミひとつないユニフォームとエプロンを着用させた。従業員は髪の毛を清潔に刈り上げ、白い布製の帽子を着用させた。爪は短くさせ丁寧に手洗いをさせた。大きな宝石や時計は着用を禁止した。イングラムは従業員が短期間で会社の理念を学び、実行し、店舗での作業の効率を高めることがホワイト・キャッスル社の成功につながると確信していた。これらの規則や規定、会社の理念は入社後2週間の試用期間(無給)の間に、ベテランの従業員の指導により新人に叩きこむようにした。数年後に成長を続け新しい地区に進出するようになったホワイト・キャッスル社は新人教育を効率良く行うため、身だしなみや衛生的な服装をわかりやすくするために、従業員の服装、体臭、口臭、爪の手入れ、をイラスト上の矢印で強調したポスターを作成し「仕事に付く前に、自分の外観を慎重にチェックしなさい」と明記した。(筆者注:このようなポスターは現在のマクドナルドなどのファストフードの店舗では従業員の着替え室に貼ってあるし、マニュアルにも同様の説明がイラスト入りでなされている。)

きちんとして衛生的な身だしなみだけでなく、従業員は素早く丁寧なサービスを行わなくてはいけなかった。従業員向けの社内報ホット・ハンバーガーHot Hambugerでイングラムは従業員は顧客第一優先で仕事をすることを強調し、その後40年間継続して「会社と従業員はお客様と良い人間関係を築くことを第一の目的とし、顧客に親切で礼儀正しくセしなければいけません」と言い続けていた。イングラムは店舗従業員の第一の目的は売上を上げることだとして、現代的な販売技術をしっかり身につけなければいけないと言い続けていた。社内報では売上をどのように上げるかとテーマにし続けており、1925年12月号では「セールスマンシップは顧客の注文をとる時から発揮しよう。顧客の注文を聞いてきちんと品揃えをするだけでなく、最後に、顧客に他の商品を勧めることを忘れてはならない。もし顧客がハンバーガーだけを注文したら、ご一緒にコーヒーやアップルパイは如何ですか?とお勧めをする。コーヒーは原価が低いので会社の売上だけでなく利益も大幅に伸ばすことが可能だからだ。また、顧客がハンバーガーだけを注文した時にはさり気なく2つ以上のハンバーガーを取り揃えて、追加でハンバーガーを販売できるようにする。従業員は顧客の注文をとる際には、顧客を注意深く観察し、頭を使って売上を伸ばす努力をするべきだ。」と売上の上げ方を詳細に説明した。このイングラムの販売方法の簡単な原理原則はホワイト・キャッスルの売上に大きな効果があったのだ。(筆者注:現在のマクドナルドなどのファストフード店でハンバーガーを注文すると「ご一緒にフレンチフライは如何ですか?」などとお勧め売りをするが、イングラム率いるホワイト・キャッスルが既に1920年代に開発した手法だったのだ。)
イングラムは次にホワイト・キャッスルキャッスル社の正しい文化を育てようと考え、社内報ホット・ハンバーガーHot Hambugerの強化を始めた。社内報は全国に広がっていく店舗網の対応として、従業員が常に同じ考えを持つように始めた。具体的には、従業員全員の友好を高め、何処の店舗でも顧客に同じ商品、同じサービス、同じクレンリネスを提供できるようにすることであった。社内報はウイチタにある本部で作成し、各店に毎月初めに郵送していた。編集人欄には本部とだけ簡単に記し、編集協力欄にはホワイトキャッスル・ボーイ(社内では従業員のことをこのように呼んでいた)と記し、記事の多くは店舗の従業員が作っているというイメージを強調するようにした。記事の内容は、新店舗開店情報、面白い店舗のイベントキャンペーン情報、やる気やアイディアを引き出す記事、ユーモラスな話やジョーク、顧客へのサービス向上のヒント、などであった。そして毎号従業員のサービスや生産性を向上させるためのイングラムのアドバイスを掲載していた。

1926年1月号には直近の四半期のコーヒーとハンバーガーの売上記録を出したことの報告、従業員からのイングラムへのクリスマスカードへのお礼、ハンバーガーには栄養が豊富であること、等を具体的に述べていた。
そして、社内報は当初の従業員同士の連帯感の維持から、顧客と会社、従業員のコミュニケーションにも役立るようになってきた。常連の顧客からは時の政治の話題から料理の品質にいたる幅広い話題が投稿されるようになった。そして、従業員や常連客は毎月発行される社内報を楽しみにするようになった。その人気の高まりを見たイングラムは、毎月発行する社内報の副タイトルを顧客と従業員から毎号募集し、選ばれた副題を提案した人には2.5ドルの賞金を進呈するようにし、毎号、数々の副題が寄せられるようになった。社内報は店舗と希望する顧客に毎月郵送されるようになった。この顧客参加型の社内報の発行は偶然に起きたのでなく、イングラムが顧客を巻き込めば、よりホワイト・キャッスル社の製品に対する熱狂的なファンが増えると考えて実行したからである。このイングラムの顧客参加型社内報の戦略は大成功し、ホワイト・キャッスル社の熱狂的なファンは増加したのである。(筆者注:現在でもホワイト・キャッスルのハンバーガーの熱狂的なファンは存在し、地域限定の店舗展開であるため通信販売で冷凍のハンバーガーを取り寄せたり、わざわざ遠方まで食べに行く、等の情報交換を行うネット上のサイトが多くある。この熱狂的なファンがいることは、マクドナルドやバーガーキング、ウエンディーズなどの全国的なハンバーガーチェーンとの大きな違いといえるだろう。)

イングラムは社内報を使って従業員のやる気を引き出すだけではなく、より具体的にヤル気を引き出すために、ボーナスシステムの導入を行った。従業員の給料は週給18ドル~30ドルと当時のレストラン業界でも破格の額であったが、さらに、年末にボーナスを支給するようにした。ボーナスシステムはホワイト・キャッスル社が発足3年後には開始していた。ボーナスは職種、タイトルに関係なく、期間中に働いた日数に応じて支給するものであった。そして、社内報で、ボーナスは従業員の努力により得た会社の利益の還元であると、業績の感謝と言う言葉だけでなく報酬も得られるのだと従業員のヤル気をだすようにした。更に、当時としては異例の医療費の補助を行った。イングラムは健康を害した従業員が医療費の負担で精神的にも負担が増えるのは優秀な従業員を失う原因であるとして、過大な治療費が発生した場合に補助をする仕組みを整えた。この医療費の補助は従業員本人と扶養者を含む寛大なものであった。(筆者注:米国では伝統的に国民健康保険はなく、健康を害した時には個人負担であり、企業で働いている場合にのみ企業単位で加盟できる健康保険がある。しかし、当時の企業で健康保険制度を備えているのは稀であった。現在でも米国には全員加盟の国民保険制度が確立しておらず、オバマ大統領政権の大きな課題となっているほどであり、この1920年代に医療費の補助を実施する企業があったことには驚かされる。)この医療費と手術代の補助の他に、病気で欠勤中も給料を支給することにしていた。勿論、病気欠勤はボーナス支給時には考慮されるが。
イングラムは「従業員が健康の維持に心配なく、安心して働ける環境で幸せを感じれば、会社の売上と利益が上がる。反対に、不安や心配事を抱えて仕事をすれば、仕事や顧客に集中できず、ビジネスにマイナスになる。」と確信していた。このイングラムの従業員を大事にする方針によって、質が高く会社に忠実な従業員を安定的に確保することができただけでなく、全国の従業員はイングラムと会社に対して忠実に働くようになった。現在のファストフードで働くことは、最低賃金の仕事で働くことを意味しているが、第2次世界大戦前のホワイト・キャッスルで働くことは他の工場労働者よりもより良い労働条件を意味しており、誇りを持って働ける職場であった。

第13章 全米にハンバーガーブームが巻き起こる
アンダーソンとイングラムの高品質のハンバーガーと素晴らしいサービスと言うイノベーションにより、ホワイト・キャッスルの成長速度はより向上した。品質の高いハンバーガーを店内で食べたり、持ち帰りできることはウイチタ市の工場労働者に大人気となり、店舗は昼時や夕方の持ち帰り客で満員の毎日となった。ウイチタ市のダウンタウンだけで、8店舗を構えていたホワイト・キャッスルは他の地域への進出を検討することになった。
最初の展開は地方都市の小さな市であった。ウイチタ市外第一号店は80マイル離れたカンサス州のエル・ドラードEl Doradoであった。そこで合計2店舗を開店し利益をしっかり稼ぎ、2年後に店舗の看板などを取り外して投資家に売却した。その後、どのエリアに展開するか迷ったが、イングラムは出身地のオマハOmaha市に店舗展開の可能性を感じた。その当時のオハマ市は地域の家畜の集散地として賑やかな街となっていた。1923年9月にオマハ市に1号店を開店しホワイト・キャッスルは大繁盛し、同年末までに2、3号店を開店した。1924年末までに同社は合計で9店舗をオマハ市で展開するほど繁盛した。しかし、そろそろオマハ市での展開は飽和状態であるとして、次の地域への展開を検討しだし、1920年代半ばには数カ月おきに新しい市への展開を始めるほどであった。同社の1個5セントハンバーガーの主要顧客は依然、工場労働者階級であったので、近くに工場のある場所を選んで出店をしていった。

次にターゲットに当てたエリアはイングラムとアンダーソンがよく知っているカンザス・シティKansas Cityであった。1920年代のカンザス・シティは農業が盛んで人口50万人の大きなマーケットであり1924年夏に一号店を開店した。その次は1925年初頭にセントルイスに出店をした。
出店に伴い、売上は好調でイングラムは1925年末に「1925年10月の一週間にホワイト・キャッスル全店で84000個のハンバーガーを販売し、0.5トンのコーヒー豆を消費した。その年末には全ての食材を販売し在庫はゼロだ。販売したバンズを横に並べると163マイル(1マイル1.6km)の長さになり、ハンバーガーの完成品は2トン積載のトラック41台に満載となる。5ガロン入りのコーヒー・アーン9,600台分のコーヒー(1ガロン3.785l)を消費した」とその繁盛ぶりを表現した。
創業(アンダーソンとイングラムが会社を設立した)時には4店舗であったが、5年後には44店舗に成長していた。2人は店舗展開の地域をもっと拡大しようと考えていたが、ウイチタ新聞の記者がハンバーガーの人気は牛肉産地で消費が多い中西部(ミシシッピー川の西からロッキーマウンテンの東まで)に限られるのではないかと指摘していた。
しかしハンバーガー店の展開にエリアが限定されるという考え方はイングラムの積極的な店舗展開によって変わることになった。イングラムはセントルイスの北側のミネアポリスに店舗展開を開始し大成功を収め、1926年末には20店舗を開店した。1927年にはミズーリー川を越えてケンタッキ州のルイビル(後のKFC創業地)に6店舗、シンシナティに10店舗、インディアナポリスに11店舗を開店した。1929年にはオハイオ州コロンバス(後のウエンディーズ創業地)に5店舗、シカゴに9店舗(マクドナルド・コーポレーション創業地)を開店した。1930年には1929年末に始まった株価の大暴落に引き続く大恐慌の最中であったが、ニューヨーク市とジュージャージー州に12店舗、デトロイトに9店舗を開店することができた。この1930年の広域への展開はホワイト・キャッスルが全国展開可能である事の証明であった。そして、イングラムはホワイト・キャッスル社が全国チェーン・レストランであると宣言し、それ以後のホワイト・キャッスル社の広告宣伝などに必ず記載されるようになった。
このような積極的な店舗展開に関しては2つの全く異なる手法が存在した。1921年に比較的に小さな町で創業したホワイト・キャッスルは既に12の大きな市に116店舗を展開していた。店舗展開の地域を見ると全長で1424マイルの距離であり、1930年代当時には、まだ連絡のための電話の普及も完全でないし、移動手段の交通網も発達しておらず、店舗のスーパー・バイジング(監督と指導)をすることは不可能に思えた。

この課題に対してイングラムは会社の指導方法を標準化することにより対応しようとした。管理を完璧に行うために店舗は直営方式として所有権のないフランチャイズ方式は厳禁とした。イングラムは店舗を会社が所有しないと完全な管理と標準化はできないと思っていた。このイングラムの経営方針は後にホワイト・キャッスル社を模倣した競合ハンバーガーチェーンがフランチャイズ方式を用いて多店舗展開を行ったが、店舗管理がうまく行かずに消えさってしまったことを見ても正しかったと言えるだろう。
イングラムとアンダーソンは1921年の創業時に借入した700ドルの返済が終わった後からは、借入を行わず店舗で上げた利益が十分に溜まったら新店舗を開店するという慎重な経営方針を守っていたので、他人の資本を使うフランチャイズ方式を導入する必要がなかったのだ。この経営方針はイングラムが亡くなるまで守られただけでなく、現存するホワイト・キャッスル社の後継者もその方針を守っている。経営評論家などはこのホワイト・キャッスルの現金主義と直営主義が未だに小さなリージョナルハンバーガーチェーンの存在の理由だとしている。確かに、現在のホワイト・キャッスル社は大手のハンバーガーチェーンのマクドナルドやバーガーキングに比べ店舗数の規模ははるかに小さいが、店舗あたりの売上利益は大手を上回り、会社の財務も大変健全であるし、90年経過した現在でも多くの熱狂的なホワイト・キャッスル・ファンがいることでもイングラムの考え方が正しかったと言えるだろう。
直営店舗主義で店舗の管理は厳格に行えるが、店舗を幅広い地域に展開するのは具体的な店舗経営指導が不十分になるし、良い品質の原材料を全店舗に供給するのが難しいという問題は解消できない。そこでイングラムは本部で集中管理をするマネジメント方式を導入することにした。
食材の供給に関しては自ら運営する専用の工場を各地に設置することにした。店舗の建設も自社で行い、従業員のユニフォームも自ら縫製することにした。自ら持たないのは牛肉を育てる牧場やバンズに使う小麦を栽培する農場だけであった。後にKFCが行うようになったインテグレーション(垂直生産統合方式)を徹底的に実行に移し、食品メーカーや製造業などの外部の供給業者に頼らない仕組みを作り上げた。経営の自由度と品質の高さだけでなく、低価格の食材や店舗建設材料の入手が可能であり利益率も高くなったのだ。
ホワイト・キャッスルが新しい地域へ展開する際は、自社のひき肉製造工場を建設した。イングラムは食肉加工工場が常に衛生的な状態を保てるように、工場施設に米国農務省の検査基準に基づくの監査を行わせるようにし、工場では塊の牛肉を仕入れ、自社の食肉加工職人に自社の基準に厳格に基づいてひき肉製造をさせた。ひき肉は決まった形状のパティに整形され、店舗で焼き上げるまで冷凍状態で保管するようにして鮮度を保つようにした。

ミート工場とは別にバンズ工場を建設し、ミートと同じような厳格な規格で焼き上げて店舗に供給した。この各食材を直営工場で製造して店舗に配達することで、本社のあるウイチタでも、ニューヨークや他のどの地域でも、販売するハンバーガーは全く同じ高品質なものを製造販売することを可能にし、かつ、食材原価も低く抑えることが可能であった。
店舗運営では、ウイチタ時代から採用してイングラムとアンダーソンたちが直接に育成した人材を新しく展開する地域の監督として派遣して、ウイチタと同じレベルの運営を可能にした。全国に派遣した監督の経営ポリシーや方針、手法を最新の物にして、会社の方向性を一致させるために、年に一回ウイチタの本部に全員を集めるマネージャーコンベンションを開催した。コンベンションでは労いのために美味しいディナーを振舞ったりして、日頃の仕事を褒め、マネージャー同士の友好を温めるようにした。また、イングラムがその年度の経営状況と今後の計画を全員に公開して、会社の方針を全員に周知するようにした。

集中管理を徹底するために、イングラムとアンダーソンは各店舗を自ら訪問し、経営状態や店舗運営状態をチェックするようにした。当時は舗装も十分でないルート66しか東海岸から西海岸を繋ぐ道路がない状態で、各店舗を訪問するのは困難であった。第7回目で述べたが、フレッド・ハーベイ社の3代目のフレッドが米国空軍パイロット除隊後、セントルイス本拠地の大西洋横断をしたリンドバーグなどと知り合い、地元の航空クラブに所属していた。このリンドバーグの知名度を利用して、セントルイス市などは航空機産業の育成を図っており、近隣のウイチタ市でも航空機関係のビジネスが存在した。それに注目したイングラムとアンダーソンはパイロット付きの複葉機を借りて広範囲に広がった店舗を訪問していった。その成功に可能性を感じて1927年秋にカーティスOX―5と言う複葉機を会社で買い求め、派手に会社の名前をペイントして店舗を自ら操縦して回るようになった。アンダーソンは飛行機の操縦免許を取得し、イングラムと共に店舗を予告なしに訪問するようにした。店舗のマネージャーは何時経営者が店舗を訪問するかもしれないと緊張感を保つことが可能になったし、経営者が直接訪問することで店舗のマネージャーと経営者の一体感を形成することが可能であった。その後、会社は飛行機を複数台購入し、店舗訪問を頻繁に行うことになった。
以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ‘ em by the Sack New York University Press

米国外食歴史 一覧
TOP