日本の食文化を伝えるこのメニュー 第1回 とんかつ とんき 新村(日本ハム広報誌 ロータリー 2010年1-2月号)

子供の頃に目黒に住んでいた筆者にとってのご馳走は目黒「とんき」の「とんかつ」だった。真っ白なカウンターで従業員の方が一所懸命にとんかつを揚げて、炊き立てのご飯と熱いみそ汁と一緒にサービスしてくれたことが嬉しかったのを鮮明に思い出す。
1階のカウンターと2階のテーブル席があるが、お勧めは30名ほどが座れるこの字型のカウンターの一階だ。カウンター内部には10名ほどの真っ白なユニフォームを着た従業員が一糸乱れず、一言も無駄口をきかず、きびきびと働いている。揚げ物を扱っているのに、天井や照明にも埃は付いていないし、カウンターの白木は勿論、床のスノコも毎日真っ白に磨き上げている。午後4時開店だが、夕方にはすぐに行列ができてしまう。入り口で人数と食べたい料理を注文してカウンター後ろにあるウエイティングの席に勝手に座る。注文を受けたベテランの方が順番をきちんと覚えていてくれるので安心だ。料理はヒレかつ定食とロースカツ定食が1800円(単品1350円)、串かつ定食が1350円(単品2本で800円)、その他はビールとお酒、ジュースというシンプルなメニューだ。料理が出てくるまで飲み物を飲む。ビールにはピーナツ、日本酒には昆布の佃煮がつく。定食のご飯やキャベツのお代わりは、注文する前に「ご飯は如何ですか?」「キャベツは如何ですか?」と聞いてくれる。その心遣いが素晴らしいエンターテイメント型のお店だ。ただ、従業員が無駄口を一切聞かないので、カウンター越しに色々なお話を伺うチャンスがなかったが、今回初めてお店の方に話を伺った。
「とんき」は新潟出身の吉原功(いさお)さんが味噌屋で修業した後上京し、五反田の同名のとんかつ屋で修業し、その後昭和12年にのれん分けの形で今のお店よりも目黒駅に近い場所に創業した。その後、現在地に昭和42年に移転した。
創業者の功さんは背は低いががっちりした体格で真っ白な髪の毛を七三に分け、包丁を握ってとんかつの揚がり具合をチェックしながら丁寧に切り分け、盛りつけていた。
以前は功さんの奥さまの妹さんの江原レイさんがその凛とした姿勢で注文取りをしていた。現在でも江原さんは夜遅くにはお店に出たり、重要なソースを造っているそうだ。
現在は功さんはお亡くなりになり、長男の功輝さんを筆頭とした3名のご兄弟の方が、厨房できりまわしている。功さんの役割は長男で社長の功輝さんが引き継いでいる。功さんのお孫さん2名も店舗に入って一所懸命に働くという、家族3代による家族経営だ。今回はその3代目の若い出日(いずひ)さんに話を伺った。
さて、筆者が「とんき」で注文するのは昔からヒレかつ定食と単品の串カツを一本だ。昔はひれカツが貴重だったので「とんき」の人気料理だ。カウンターに座るとすべて見渡せるが、卵と小麦粉を3回ほどていねいにつけ、関西の串カツのように細かいパン粉を付けて、低温に加熱したラードの複数の鍋で順番に丁寧に揚げられる。普通のとんかつは衣が肉にぴったり密着しているが、「とんき」の衣は剥がれかけて空洞ができている。パン粉をつけるときに強く押し付けないためにできる空洞が、肉に火が通り過ぎるのを防ぎ、柔らかく仕上がるのだ。また、パン粉が細かいので脂が肉に滲みとおりにくく、脂っこさがなくて年配の方も食べやすいのだ。
料理もおいしいのだが、従業員の方のきびきびした動きを見ているのも楽しい。料理とそのサービスの素晴らしさから、外国人のお客様が多いのも目立っている。今回お話を聞いて吉原家3代の方がお店の前線で一所懸命に働く、経営者の顔が見える安心感のあるお店だと実感させられた。

筆者がサラリーマン時代は会社本社が新宿にあり、担当エリアも新宿だったので新宿では良く食事をしていた。その時に利用していたレストランが歌舞伎町にある「とんかつの新村(にいむら)」だ。新村の創業は昭和36年でもうすぐ創業50年になる新宿でも老舗のとんかつ屋だ。創業したのは大手繊維メーカーの経理の仕事をしていた新村雅敏さんで、現在は息子さんの雅彦さん、武敏さん、康敏さんの3兄弟が経営にあたり、さらに雅彦さんの息子さんたち2名が店舗運営に当たるという家族経営のお店だ。家族経営というのは珍しくないが、経営者の方が店頭に立っているというお店はそう多くないだろう。
創業者の雅敏さんは土地に対する先見性があり、将来成長するだろうと新宿歌舞伎町の中心に昭和22年に土地を取得し、乳製品の販売店を営んでいた。そして、全国各地を仕事で旅をするうちに出会ったとんかつの美味しさに目覚め、昭和36年に50歳代で脱サラをする際にとんかつ屋を開業することになった。当時、飲食業の経験がなく、苦労したのを見かねて二男で立教大学に通っていた武敏さんが厨房に入り、長男の雅彦さんも同時に手伝い始めたのが家族経営の始まりだ。その後、大学を出て大手外食企業で勤務した経験を持つ三男の康敏さんが加わった。武敏さんが大学の先輩であり、康敏さんが同じ会社の同僚であったという縁で、新宿で働いていた筆者は栄養補給が必要になると訪問し、新宿繁華街の情報を伺いながら美味しいとんかつを食べた思い出がある。
新宿歌舞伎町は日本でも有数の繁華街であり、飲食店が多かったがバブル期の土地高騰などや投機目的の地上げ屋により、自ら飲食店や小売店を経営するビル所有者が減少し、貸しビルに変わり、高い家賃を払う風俗店が歌舞伎町を席けんするようになり、街が荒れてしまった。しかし、「とんかつの新村」は自ら経営するとんかつにこだわり、兄弟3名が毎日店舗に顔を出し経営を続けている。また、歌舞伎町振興にも力を入れて街の浄化や活性化に貢献するという熱心な方々だ。
メニューはヒレかつ定食1550円(単品1250円)、ロースかつ定食1450円(単品1150円)がメインの料理で、その他、海老フライや、メンチカツ、ハンバーグ、など豊富なメニューだ。最近は銘柄豚の人気も出てきたので黒豚ヒレかつ定食2350円(単品2050円)黒豚ロースかつ定食2250円(単品1950円)も置いている。
新村のとんかつの調理は一度揚げて衣を固めた肉をオーブンでじっくり火を通すという、昔ながらの洋食屋の手法だ。オーブンで調理をするため時間はかかるが、その分脂分が少なくさっぱりしているのが特徴だ。また、創業時に肉や美味しいコメの入手に苦労し、創業者の雅敏さんが大手商社の社長に自ら交渉し、肉とお米を調達できるようにして、現在もその仕入れ先を大事にしている。
黒豚も美味しいのだが、吟味して仕入れている通常の豚も脂身が美味しい。また、創業者時代からご飯とみそ汁はとんかつを構成する大事な要素だと力を入れているのもうれしい限りだ。歌舞伎町の界隈は個人経営の飲食店が減少し、チェーンレストランばかりになって味気ない。その中で、経営者の方が陣頭指揮をして常に店舗に立っている「とんかつの新村」は女性でも安心して入ることのできるお勧めのお店だ。
今回ご紹介した、目黒の「とんき」、歌舞伎町の新村も個人経営の飲食店がどのように生き乗るかを考えるときに大変参考になる、美味しいお店だ。

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