日本の食文化を伝えるこのメニュー 第3回 ビアホール神田神保町「ランチョン」(日本ハム広報誌 ロータリー 2010年5-6月号)

ビールを販売する飲食店は1875年(明治8年)にキリンビール社の前身である「スプリング・バレー・ブルワリー」(横浜)の創始者 W・コープランド(米)が横浜の自宅を改装してビアガーデンを開いたのが最初である(キリンビール社HP)。そして1899年(明治32年)8月4日にサッポロビール社の前身日本麦酒が銀座(現在の銀座8丁目)に開業した飲食店でビアホールという名称を日本で初めて使い(サッポロライオン社HP)大人気となった。当時のビール大ジョッキの価格は現在の価格だと2000円程度とかなり高価なアルコール飲料だったようだ。
 大手ビールメーカーがビールの普及のために開業した大型のビアホールが多いが、1909年(明治42年)に個人経営でビアホールを神田神保町に開業したランチョンは創業100年を越える老舗だ。創業は初代の鈴木晴彦さん、2代目の鈴木信三さんが跡を継ぎ、第二次世界大戦前後から昭和50年代まで経営にあたり老舗ビアホールとして定着させた。3代目は現在の当主鈴木一郎さんと鈴木喜久子さん、4代目は次男の鈴木寛さんと三男の治さんと、すでに4代目となっている都内でも老舗の飲食店だ。
筆者が新宿からお茶の水エリアのマクドナルド店舗スパーバーバイザー時代(昭和40年代の終わり頃)2代目の信三さんがディスペンサーの前に立っていた頃から通っている。鈴木信三さんは小柄の白髪頭でにこりともしないぶっきらぼうな怖い親父だった(娘さんの喜久子さんがそっくりである)。初めて店に行った時はビールを丁寧に飲まないと怒られるような緊張した雰囲気を感じた。いやに愛想の悪い店だなと思ってビールをぐいっと飲み干すと(この店は薄手のビアタンブラーしかおいていない。大ジョッキだと飲んでいる間にきめの細かい泡が消えてしまい、温度が上昇して美味しくなくなるからで、きめの細かい泡が立つようにビールグラスは綺麗に洗浄され冷却されている)この怖い親父と目があった。そして親父が無言で「もう一杯いるか?」と目配りする。それに「うん」と頷くとさっとビールが注がれてテーブルに運ばれてくる。
ビール好きにとって飲みたいときに間髪を入れずにもって来てくれるのが嬉しい。大きなビアホールで追加注文したのになかなかもってきてくれないと、盛り上がった場が白けてしまうし、飲もうという気合いもなくなる。この信三さんは愛想こそないが全身と五感を使ってお客様に注意を払っているのだ。
そのサービスに感動した筆者はランチョンのファンになり、そのサービス精神を部下の店長に学ばせるために、仕事のあとランチョンに連れていくようになった。当時のマクドナルドは日本進出後5年ほど経過し成功していたが、サービスは米国流の笑顔とスピードを重視するシンプルなものであったから、もう少し日本的な気遣いのできるサービスを定着させようと思ったからだった。
ランチョンを気に入った二つ目の理由は洋食を提供しているからだ。ドイツが発祥のビアホールはビールを飲むのが目的であり簡単なつまみしかないのが一般的だが、ランチョンは創業時から手造りの洋食を売り物にしている。筆者の好きなランチョンの料理は、柔らかく煮込んだタンシチューとスパイシーなカレーライスだ。そしてサイドオーダーでサラダスティックとサラダを注文する。野菜にたっぷりついてくる手造りのマヨネーズが美味しいのだ。サラダスティックは注文後すぐに運ばれてくるから、ビールのおつまみにぴったりだし、ちょっと健康的な雰囲気を味わえる。
 そして、ランチョンが大好きな三つ目の理由が昼から休みなしで夜まで営業していることだ。通常のビアホールは夜が中心の営業だが、近所に書店や商店街がある神保町の特性からか、ランチ営業から夜まで休憩なしに営業をしている。周囲の本屋で立ち読みしたり、本を選んだりして疲れたら、早めの時間にランチョンに行きビールを飲めるのが嬉しい。
 ランチョンのビールは飲みやすい。特に黒生ビールが飲みやすい。黒生ビールは苦い場合が多いがランチョンの場合はスーと喉を通る。今回は4代目の鈴木寛さんにランチョンのビールへのこだわりを聞いた。
 浅草の大日本麦酒(後にアサヒビールとサッポロビールに分割)の吾妻橋醸造所に近かったのが創業時の美味しさにつながったようで、創業時からアサヒビールを使用している。現在の日本の生ビールはビール酵母を濾過する方式であるので常温でも劣化が進まないが、昔の生ビールは鮮度が大事だったからだ。
 寛さんはランチョンのビールが飲みやすいのは、抽出時のビールの温度が低すぎず、適度の炭酸度合いだからだという。通常の飲食店の生ビールは常温のビール樽から送り出されたビールをディスペンサーで瞬間的に冷やして提供する。そのために冷たすぎるという問題を抱える。ランチョンの場合はカウンター背後に冷蔵庫を設置し、そこでビール樽を冷却しておく。そのビール樽とディスペンサーを循環冷却水で保冷している配管でつなぎ、ディスペンサーでさらに温度を調整して提供する。四季のある日本では冬と夏では気温が異なる。そんな気候の中で年間を通して同じ温度でビールを提供することはできない。ランチョンではディスペンサーの冷却水温を6~9℃の間で気温により変化させて最も飲みやすい温度に調整している。冷却水内の配管の口径も重要で、ビールの抽出量に合わせて最適の口径にしている。そのビールの抽出速度が泡立ちに微妙に影響するからだ。ビールをグラスに注ぐ時に適度の泡を立てることにより、ビール中の炭酸ガスが適当になり、泡が炭酸ガスを保持する役割を持つ。そのために、グラスも特注だ。ジョッキは使わずに特製の上部の縁がややつぼんだ形状の薄型の特製グラスを使用するこだわりだ。
 そして、ビールの味を決定的に左右するのが、グラスとディスペンサー内部の洗浄だ。ビールグラスには料理の脂をつけないように丁寧に下げて、カウンター内で料理の皿とは別に洗う。グラス内に油脂が残っていると泡が綺麗に立たないからだ。ディスペンサー内部は毎日丁寧に洗浄しビール滓を丁寧に洗い落す。これを怠るとビールの味が劣化するからだ。
寛さんにランチョンの美味しさの秘訣を教えてくださいと言っても、そんなに特別なことをしていないという。しかし、寛さんは高校時代からお店を手伝い始め、初代から3代目まで築きあげた品質へのこだわりを自然に身につけているのだ。そして、何十年と通っている常連のお客様の方々が温かい目でランチョンの品質を見守っているのだろう。

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