1969年4月
父親の経営する飲食業に入社喫茶店、ナイトクラブ、焼き鳥屋、等を運営
1971年1月
上記を退社
1971年1月
レストラン西武入社(ハンバーガー業を学びたく、当時ハンバーガーチェーンのコルネット店の展開をはかりかつバーガーキングとの提携交渉をしていたレストラン西武に入社した。)
1971年2月
ダンキンドーナツに配属を希望しかなえられる。トレーニングセンターにてトレーニングを受ける。ドーナツ大学を卒業
1971年5月
池袋ショッピングパークのテスト店舗の責任者になる。夏場にかけて売上を30%も延ばす。従業員のおすすめ売りのトレーニングをし、試食サンプルを一個あたりのサイズを小さくしながらも、サンプル数量を多くし試食人数を増加させ顧客の拡大を成し遂げた。店舗のイメージを出すためにポスターを作成し従業員のユニフォームを統一しアメリカからきたドーナツというイメージを強調した。その後、銀座店、国立店の開店を手伝う。
1972年 1月
第3号店の田無店を店長としてオープンする。夏場まで売上が低迷し苦労するが、開店時間を朝7時からにし、さらに従業員を男子3名にし、売上を延ばしながら利益を大幅にあげるようになった。特に近隣にあった西友ストアーと交渉し西友ストアー店頭でサテライト店舗を出店しそれが売上につながると同時に地域の住民へのブランドの浸透につながり大成功した。また第一勧業銀行とも交渉し、銀行のサービスデーに銀行店内にサテライト店舗(小型移動店舗)を開き地元へのブランドイメージを高めた。また品質管理にも注意を払い、マニュアルで決められた商品基準よりもきびしい基準を導入し、セールスを高めると同時に原価も低減させる事に成功した。特にコーヒーの保管時間はマニュアルでは18分であったのを10分にし、さらにコーヒー豆の計量を厳格にし、高品質な味を安定することに成功した。ドーナツの製造においても手作りの為品質が安定しにくいという問題があったが、製造時間の厳格なスケジュール化と徹底した計量により品質を高めた。
1973年 1月
レストラン西武退社
同年 1月
日本マクドナルド株式会社入社 ハンバーガー大学B.O.C(初級マネージャートレーニングコース)卒業、お茶の水店にアシスタントマネージャーとして配属。 当時マクドナルド社はまだマニュアルの整備がされておらずそのため現場レベルでのトレーニングチェックリストなどは未整備であった。そこで面接チェックリスト、オペレーションチェックリスト等を作成し、色々なマネージャーでも同じ品質の作業が可能にした。 AOC(上級マネージャートレーニングコース)主席にて卒業。
同年 7月
新宿二幸店に配属、同店にて1STアシスタントマネジャー(店長の次の職位)に昇進 新宿二幸店は当時大型店舗で売上が大変高い店舗であったが、アルバイト従業員の管理が悪く大きな問題になっており、そのため当時のマネージャーは全員入れ換えられた。店舗の規律を厳しくして対処したが、そのペースが遅かったので店舗改装時に一気に選別をはかったがアルバイトの反発を買いストライキとなった。しかし厳しく対処したことと、社員マネージャー一同団結により、店舗の改善に成功した。その後、ストライキを起こしたアルバイト従業員のうち、5名ほど入社し現在はその内の1名は統括スーパーバイザー迄になっている。
1974年 4月
同店にて店長に昇進。 当時社員マネージャーの人数は5~6名であったが、多店舗展開のため人員の余裕がなくなったのと同時に、利益管理の問題から社員数を1店舗あたり4人運営するため、スイングマネージャー(アルバイトでありながら社員と同じ業務をする。)の養成の必要が出てきた。3カ月をかけ5名のアルバイトマネージャーの育成とシステム化に成功した。その内2名が後に社員となった。その後このトレーニングシステムを生かしBCCコース(ベーシックオペレーションコース、アルバイト用基本トレーニングコース)を社内の標準トレーニングシステムに導入した。
1975年 1月
お茶の水店に移動
同年 1月
スーパーバイザーに昇進 新宿二幸店、西武新宿店、お茶の水店を担当 神田小川町店、六本木店、原宿店、新宿東店、等の新規開店を担当する。それと同時に、当時大きな問題であった調理機器のメインテナンスと性能アップを担当する。特に大型サンドイッチのクオーターパウンダー(1/4ポンド、113gの重量の挽き肉ハンバーグ)の導入にともなうグリルの能力アップを担当した。同時にフライヤー、トースター、スチーマー、テーラーフリーザー製シェイクマシン等の能力アップを図った。 なお同時に、店舗のクレンリネスの向上のために各種の洗剤を開発した。グリルクリーナー、洗浄殺菌洗剤、ステンレスクリーナー、フライヤーボイルアウト、手洗い洗剤、等。グリルクリナーの開発においては日本マクドナルド社が特許を取得した。アデカクリーンエイドで販売しているグリルクリーナーがそれである。また、アデカクリーンエイドの他、日本ティーポール、ジョンソン社、住友3M社等と多くの洗剤を開発した。 SVの業務だけではなく、店舗開発の業務を手伝い、神田小川町、原宿、新宿東口、阿佐ヶ谷等の大型店舗のオーナーの獲得を行った。
1977年 11月
ハンバーガー大学プロフェッサーになる。BOC(ベーシックオペレーションコース、初級マネージャートレーニングコース),AOC(アドバンスオペレーションコース、上級マネージャートレーニングコース)の授業を担当し、同時に、機器の能力アップ、洗剤の開発、マニュアルの作成を担当した。当時まだ米国のマニュアルの導入は行われておらず、その為日本のオペレーションは米国のそれとはかなりかけ離れたものであった。そこで、米国のマニュアルの検討を進め、初めて米国に準じた日本語オペレーションマニュアルを発行した。機器の改善により生産能力向上に成功したが、それを維持するために機器のメインテナンスマニュアルを作成発行し、同時にそのトレーニングシステムを作成導入した。 また、当時米国使用の原材料と大幅に異なる品質の原材料を使用していたので、マニュアルの翻訳の課程で全ての資材を見直し、工場の機器設備まで確認する作業を進めた。マクドナルドの原材料の仕様設定を実施した。また、品質管理のため、店舗からのクレームを処理するシステムをつくり、工場の指導に当たった。パン工場の指導、トマト畑からケチャップの加工、食肉の加工工場など殆どの食材加工工場の指導に当たった。 米国マクドナルド社機器開発部から全自動のコンベアーグリドルの開発を依頼され担当する。特許を取得するが実用化ならず。しかし、その開発課程で関連機器の能力向上がはかれた、特にディジタル温度計の開発に成功した。この自動化のグリドルは米国において研究が進められ、クラムシェルグリドルとなった。また、その開発課程で、電磁調理機器の性能テストを実施した。 SVの頃からセールス対策で客席のサービスの強化としてフロアーサービス(客席お客様係り)の導入をしていたがその継続としてSTARプログラム(地域宣伝PR活動担当員トレーニングシステム)を開発し、マニュアルと担当者組織を作成した。これにより女子社員の登用の道を開くことに成功した。又、子供向けのプロモーションであるドナルドアピアランス等の開催、地元の祭事への積極的な参加、地元企業とのタイアップ広告などが可能になった。
1978年 11月
統括スーパーバイザーに昇進。東京新宿地区及び千葉、埼玉、群馬、茨城、新潟地区30店舗、6スーパーバイザーを担当する。スーパーバイザーの店舗指導を具体的にし、トレーニング能力を向上させた。特にQSCの基本に忠実な指導をするように心がけた。また、店舗開発とも協力し、大型店舗の開店を目指し数多くの出店をした。 統括スーパーバイザーの業務のほかに、引き続きマニュアル及び機器 の改善を担当した。洗剤のシステムの完成及びデジタル温度計の作成をした。デジタル温度計に関しては当時精度の高い反応速度の早い温度計がなく、F と℃ を表示できる市販のものがなく自ら作成せざるをえなかった。現在ファーストフード各社で採用している芝浦電子製の温度計がそれである。 マルシンとの商標の裁判にて一審に破れた。当時は総務部に法学部出身者がおらず、私の提案で弁護士事務所を変更し、弁護士に対する訴訟方針を実務面から見直し、私自身が2審に証人として出廷することと顧客の誤認のアンケート調査を実施し、2審を勝利に導いた。商標登録の判例百選に選ばれている。マルシンの裁判とは、日本マクドナルド社が商標登録する以前に、マルシン社が類似のMマークとロゴを商標登録しマックバーガーとして販売した。マックバーガーを冷凍ハンバーガーとして、電子レンジ組み込みの自動販売機での販売システムを構築していたものである。この裁判で破れるとMマークのロゴを使用できなくり、かつマックバーガーという名称を使用できなくなる可能性があり、今日のマクドナルドはあり得ない危険があった。
1980年 2月
統括スーパーバイザーとして東京西部、神奈川、静岡を担当、当時売上の高い江ノ島店を担当し、機器の能力を改善し、1カ月で1億円の販売が可能の能力にした。また、クルーのミート焼成の技術であるターンレイオペレーション(連続調理方法)を日本に導入し、時間あたりの販売能力と生産性を大幅に向上させた。 グリルのターンレイオペレーションの普及のため香港を訪れ現地のトレーニングをする。同時に機器の保守のトレーニングをする。特に香港は1店舗あたりの販売金額が大変高く、クルーのオペレーション能力の向上と同時に、機器のメインテナンスをしないと売上を取れない状態であった。 本社プロジェクトとして、店舗レイアウトの検討と、能力の向上を担 当する。さらに店舗建設の標準化も担当し、小型のローコスト建設の実験をした。 店舗の省エネルギーのために、排気ダクトの分割をし機械の稼働に応じた排気量になるようにした。また、照明の適正な配置を行い、時間帯別コントロールできるようにした。POP、及び看板の照明を演色性の高い蛍光灯に変更し、販売効率を高めた。また、POPの売上への影響を分析し、ピーク時の効率のよい掲出方法をつくりだした。同時にドライブスルー店舗の仕様の標準化を担当した。水冷機器の冷却水とフレオンガスの効率の良い係数を算出し、水道代を大幅に削減する事に成功した。 300号店の横浜元町店において、記念店舗の為の仕様作りを担当した。、ハンバーガーの保管コントロールのため、店舗用のPOS利用ソフトウエアーを開発し、ハンバーガーの必要製造個数をPOSデーターに基づいて、自動的に表示するシステムを構築した。 このシステムの考え方は、現在のセブンイレブンなどのGOTと同じコンセプトである。 店舗管理の向上のため、ウイークリーオペレーティングリポート(週間営業報告書)を改良し、さらに、マンスリーオペレーティングリポート(月間)を作成した。店舗の現金日報、労務費コントロール等全ての書類の合理化の作業を担当した。 統括スーパーバイザーの業務として特に人材育成につとめた。結果として当時の部下の内、8人が統括スーパーバイザーになり その内、4人が運営部長になり、さらに2人が地区本部長になった。
1981年11月
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタクララ郡サンタクララ店に統括責任者として派遣される。 英語の研修とUSのマネージメント、オペレーション、物の考え方を学ぶ。特に多国籍民族の使い方を修得。日常業務としては,USマクドナルド社の1フランチャイジーのオーナーとして店舗を運営した。 特にUSマクドナルド社のフランチャイズシステムの研修に主眼をおいて研修を受けながら、日本からの研修のSV及びFCの教育指導を担当した。 USマクドナルド社への貢献として、各店舗のマネージャーへのAEC(上級機器メインテナンスコース)のコースに店舗を解放し、トレーナーとしてトレーニングに当たった。 受けたトレーニングコースBOC、AEC、AOC、SVコース(スーパーバイザーコース)、FCコース(フィールドコンサルタントコース、フランチャイズチェーンの指導員コース)、トレーニングコンサルタントコース(ハンバーガー大学などの授業をする担当者用トレーニングコース)、マーケッティングハンバーガー大学(広告宣伝業務、テレビコマーシャル展開方法、販売促進手段、効果的広報等の教育コース)、等のトレーニングコースに参加した。その他 機器開発部で1カ月間の研修を受けた。 米国に置ける事業展開の方法を学んだ。特にフランチャイズ展開に置 ける法的な問題、財務的な利益の出し方、長期企業計画作成などを学んだ。また、それに伴い米国独特の不動産取得方法、及び訴訟問題を修得した。 米国厨房機器製造メーカー、及び店舗デザイナー、客席家具製造業、ミート、バンズ、等の食材製造業者等を訪問し交流を深めた。独立後の現在も交流が続いており、日本に上陸する殆どのFFの調理機器設備のアドバイスをするようにまでなっている。
1984年 3月
帰国し、関西地区本部 統括スーパーバイザーとして、神戸地区及び 中国四国地区を担当。 人材の育成を強化するために、店舗の基本となるQSCの見詰め直しと利益管理の強化を実施した。 QSCの強化は店舗を訪れるときのストアービジテーションリポートの作成をマンツーマンでトレーニングし注意力を増加させた。また同時にオペレーションをハンズオン(体で示して)でトレーニングし直した。また、店舗を訪れるときにただQSCをチェックするだけでなくその店舗の月次の利益計算書及ウィークリーオペレーションレポートを頭においてオペレーションの評価をするようにトレーニングした。店舗のマネージャーのQSCの向上の為に、SV,統括SVのトレーニングを実施。特にコミュニケーションデーの導入により利益管理トレーニングの向上をはかった。 また、人材育成の一貫として人事評価制度の改善をした。人材評価には絶対評価と目標管理評価がある。本来絶対評価の割合は標準化が進んだ店舗においては80%位であるべきであったが、現場を見ないで評価できるという容易さから、目標管理評価の割合を100%で実施していたため、SVの目標管理の指導により、店舗のマネージャーの評価が大幅にバラつくという問題点が発生していた。 それを、月に一 回のコミュニケーションデーを活用しその場で、SV,統括SV,マネージャー、アシスタントマネージャーと、店舗の評価、マネージャーの評価を、目標管理、本人のトレーニングの進行状況を話し合うことにした。この日には、具体的にストーアービジテーションリポート等によるQSC、ウイークリーオペレーティングリポート、P/Lなどの利益管理、マネージメントデベロップメントプログラム(各個人のマネージャーのトレーニングツール)、前回のコミュニケーションデーよりの進行状況を元に具体的にディスカッションするようにした。 月に一回具体的に評価をするという事は、評価される側のマネージャーも具体的な成果を出さなければならないので大変であるが、それ以上に評価をする側のSVも具体的に事実を持って評価をしなければならず、店舗訪問時も目的を持って具体的に店舗を観察し、それを相 手に分かりやすく公平に伝えるという意味で大変である。そして、SVの評価自身もこれにより決まるのでSVのトレーニングにも大変役に立ったのである。後に、このコミュニケーションデーは全国の店舗に取り入れられるようになった。 当時の店舗はコストダウンのため、小型化し、特にコストは安いがメインテナンスの出来ない天井埋め込み型の空調機を使用していたため、夏期に厨房の温度が下がらずひどい労働環境であった。そこで、空調機のメインテナンスのマニュアルを作成し、SV及び店舗へトレーニングし改善した。それが結果的に電気代とメインテナンスコスト削減にもつながり、利益も大きく改善された。後に、部長になり営業技術課を担当したとき、このメインテナンスマニュアルを元に業者をトレーニングし年1回の清掃を実施することにし、これが全国に行われるようになった。また、この結果から設計管理部を指導し、空調機の機種、カロリー数の選択、が適正になるようにし、店舗の空調は大きく改善された。 ドライブスルーレイアウトを米国と同様に改善し、さらにアウトサイドPOS(ピーク時の外置きのPOSシステム)を導入しドライブスルーのスピードを飛躍的に向上さ せた。ドライブスルー店舗の標準化を米国本社と作成した。 その他、新規厨房機器の導入、赤外線グリル、パルスフライヤー等の導入に当たり、機器の承認業務を担当した。
1985年 4月
関西地区本部第一運営部長に昇進。中国四国、名古屋、大阪、北陸を担当する。 同時に業務課及び営業技術課を担当。ドライブスルー店舗の展開が多く、従来問題であったドライブスルーレイアウトを米国と同様に改善し、さらにアウトサイドPOS(ピーク時の外置きのPOSシステム)を導入しドライブスルーのスピードを飛躍的に向上させた。ドライブスルー店舗の標準化を本社と作成した。
1987年 5月
中央地区本部発足に伴い、中央地区第一運営部長として転任、神奈川、静岡、北海道地区を担当。その他 業務課及び営業技術課を担当。当時問題であった地方店の売上対策を実施し、売上をあげ利益をコントロールする。
1988年 10月
運営統括本部運営統括部部長 兼 海外運営部長に任命される。 全国店舗のオペレーションの担当をする。
1989年 4月
運営統括本部運営統括部長、兼、海外運営部長兼任のまま、機器開発部長に任命される。海外運営部としては赤字であったトロント店舗の閉鎖と、シカゴ地区ので新規店舗の取得を、米国マクドナルド社のターナー会長と交渉し実現する。 機器開発としてはパルスフライヤー(熱効率の高いフライヤー)、クラムシェルグリドル(調理速度が速いグリドル)、新型シェイクマシン(毎日の洗浄殺菌を自動で行う機械)、洗浄機、ワイヤレスコミュニケーションシステム(無線マイクロフォンシステム)、自動洗浄機、等の開発をする。開発能力向上のため外部より人材を採用育成する。 運営統括部長としては、開発したコミュニケーションデーによる人事評価制度と、トレーニングシステムの全国への導入をする。 利益管理の一貫として再投資評価プログラムの作成と導入をする。
1990年 10月
社長室事業開発担当部部長に任命される。 フライドチキンの開発に伴い、プロジェクトチームとして事業開発部 を発足し、機器及びオペレーションの開発を担当する。
1991年 7月
開発本部発足にともない、開発本部事業開発担当部部長に任命される
1991年 10月
開発本部機器開発部担当部長に任命される。 フライドチキン開発において、当初圧力釜で開発したが、KFCのスタイルはファーストフードのドライキッチンに合わず、断念せざるを得なかった。そこで鳥肉の供給業者と組んで超大型の圧力釜を工場につくり、完成品を揚げ、それを冷凍し店舗に配送した。店舗では特殊なプログラムを導入したスチームコンベクションオーブンで解凍加熱した。解凍加熱機器の開発において世界中の厨房機器メーカーの機器をチェックし、米国マクドナルド社の本社開発室にてテストをした。後に、圧力釜を使用しないシステムを開発した。
1992年 4月
日本マクドナルド社退社
1992年 7月
コンサルタント会社有限会社 清晃を設立。
1996年2月7日
有限会社清晃 代表取締役を務める。立教大学大学院ビジネスデザイン研究科教授、関西国際大学教授、その他大学の非常勤講師。
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